九州の田舎ものが大学生となり、古(いにしえ)の都へ出てきて間もない頃、巷には、否応なく耳に飛び込んでくる歌たちが溢れていました。歌謡曲全盛期時代のはしりだったのでしょうか。今になっても、はっきりと歌詞まで覚えている曲の数々。それは、

「夜明けのスキャット」「時には母のない子のように」「人形の家」

「ブルー・ライト・ヨコハマ」「長崎は今日も雨だった」「風」

「いいじゃないの幸せならば」「ある日突然」「初恋の人」

「今は幸せかい」「愛の奇跡」「禁じられた恋」「みんな夢の中」

なかでも、森進一の「港町ブルース」は、ひっきりなしに流されていたように記憶します。

♪背のびしてみる海峡を 今日も汽笛が遠ざかる あなたにあげた

 夜をかえして 港、港 函館 通り雨……

 

「女のためいき」でデビューした森進一は、同時期にデビューした青江三奈と共に『ためいき路線』として売り出されました。

あの意図的に潰したかのような掠れ声は、当時、美声歌手が主流の歌謡界で「ゲテモノ」「一発屋」扱いをする者も多かったわけですが、森さんはその後も立て続けにヒットを重ねていきます。そして3年目には「花と蝶」を引っ提げて紅白歌合戦に初出場を果たしました。

その翌年のこと、第二回目の出場時には、なんと白組のトリとなったのです。歌唱曲は上記の「港町ブルース」です。この曲でレコード大賞・最優秀歌唱賞も獲得できたのでした。森進一、時に22才でした。

 

 演歌歌手と呼ばれることを嫌う森さんは、その後も流行歌歌手として演歌の枠に捉われることなく、他ジャンルのアーティストとのコラボなどでヒット曲を飛ばしていきます。

フォーク・ソングの吉田拓郎と組んだ「襟裳岬」では、ついにレコード大賞、歌謡大賞などの賞を総なめにしたのです。

 

 数ある森さんの歌の中で、1984(昭和59)年に阿久悠さんが提供された「北の螢」が特に好きですね。

その歌としての凄みは、他の追随を許さないほどだと感じています。

♫山が泣く 風が泣く

 少し遅れて 雪が泣く

 女 いつ泣く 灯影が揺れて

 白い躰がとける頃

 

 もしも 私が死んだなら

 胸の乳房をつき破り

 赤い螢が翔ぶでしょう

 

 ホーホー 螢 翔んで行け

 恋しい男の胸へ行け

 怨みを忘れて 燃えて行け……

 

 私は残念ながら、リアルでは視聴していませんが、この「紅白歌合戦」での森さんの歌唱は、曲の作り手である阿久さんから「聴き手をねじ伏せることが出来る」「プロを見せつけることが出来る」と評されたそうです。

阿久さんが、この詞の原稿を手渡した時、作曲の三木たかしさんは体を震わせて興奮され、その興奮は森さんに伝わって、この紅白歌合戦での鬼気迫る熱唱につながったのでしょう。

 

 阿久悠さんのこの"ことば"に同感することしきりです。

「歌謡曲が、今死にかけている。~ 歌謡曲が真ん中にドンと座り、右翼に伝統的演歌、左翼に輸入加工のポップスというバランスの筈であったのが、真ん中がスッポっと抜け落ちてしまったのだ。

それはたぶん人々が、歌を歌いたがるが、歌を聴きたがらくなったからだと思う。聴いて楽しむ習慣が見事になくなった。~ 『聴き歌』がなくなったのは、みんなが歌う人になり、自分が歌えるかどうかが作品評価の規準になってきたからだと思う。ということは、プロ歌手の圧倒的表現力や、プロ作家の革新的創作力などは、むしろ邪魔になる。ただ気持ちよく歌いやすいものを選ぶ。~ たまには、プロにしか書けない、プロにしか歌えない歌に驚嘆してみてほしい。食べやすい物ばかりが評価されると歌謡曲を殺したようにやがて、文学や映画も殺すことになる」

 

 そのような意味合いで、森さんの歌では、他に‥

'71「おふくろさん」'81「それは恋」や、古賀政男メロディから

「影を慕いて」「人生の並木路」の歌唱。そして最近ではNHKBSで唄った、杉本眞人の「吾亦紅」の歌唱、などが印象に残っています。