ピアノバー『spring moon』は高級ではなく、さりとて、下品に騒ぐグループも鬱陶しいカップルも来ず静かに飲める場として知る人ぞ知る店だった。
ピアノバーであるからカウンター奥にアンティークなビアノがおいてある。
だが、店主の気に入る弾き手がみつからなければ強いて雇わない主義なので単なる飾りになっていることが多いが、今は間接照明の淡い光でもそうと判る美女が滑らかに指を滑らせている。
曲はクラシックに限らず事前に曲目を考えてはあるが客のリクエストにも随時応えていた。
「いらっしゃい」
ビアニストは演奏中のためか、微かな会釈だけで声は出さなかった。
この店の客層からすると些か若い三人組だが、騒ぐ様子はなく慣れた仕種でカウンターに着いた。
「ピュアモルト、ダブル。ノーチェーサー」
一番若く背の低い男が、淀みなく告げた。
初めて甥っ子が、この日番谷冬獅郎という少年を連れて来てオーダーを聞いた時、春水は鼻白んだものだ。
だが、意気がって一気に飲むものかと思ったのに少年は薫りを楽しみながらちびりちびりと飲んでいる。
その様子から彼が本当にウィスキーが好きなのだと察せられて酒好き春水は彼を気に入ってしまった。
それで、色んな酒を薦めたが彼は一定量を飲むとソフトドリンクに切り替えアルコールを一切口にしなかった。
己の酒量を弁えているところも好ましく甥っ子にしては良い友人と付き合っていると安堵したものだ。
オフショルダーというか、着物を緩く纏ったようなナイトブルーのドレスは乱菊の髪と肌を引き立てている。
アクセサリーは耳たぶに収まる大きさのピアスだけだが、それで充分なのだと誰しもが思った。
ただ、冬獅郎だけは彼女に似合うあれこれを頭の中で一巡りさせた。
一曲弾き終えたタイミングで
「マスター、いつもんリクエストしてええですか?」
と、若い男が声を掛けた。
春水が、頷くと店内にピアノの音が流れる。
店を出る冬獅郎の目の端に一瞬、視線を絡ませた乱菊と男が映りアップテンポの曲に包まれているのに何故だかやるせない気分にさせた。