FC町田ゼルビアは2011年12月12日



Jリーグの臨時理事会にて



JFL年間順位第四位のFC松本山雅とともに



来年度からのJリーグディヴィジョン2への参入が



認められた



くにのみなもをきわむるところ 國水社
悲願のJリーグへさあ行こう!



くにのみなもをきわむるところ 國水社
言葉に詰まる津田和樹キャプテン



くにのみなもをきわむるところ 國水社
セルビア国旗を掲げてのビクトリーウォーク



1970年代から少年サッカーの町として少しずつ歩み始め



Jリーグ発足前にFC町田として出発



Jリーグが開幕した時、全日空の町田招致が流れたことで



Jリーグへの参入を目指しての長い旅が始まる



東京都リーグから関東リーグへ



決して平坦ではなく



その都度壁にぶつかりながら



一つ一つをクリアしてきた



それは大きなバックアップを持たない



市民とともに成長するチームの宿命だったのだろう



そしてチームが成長するために



多くの人々が協力し



集いそして去っていった



くにのみなもをきわむるところ 國水社
こんな場面も・・



Jリーグというトップリーグへの最後の関門となる



JFLにたどりつき



多くの門番と同じ志を持つライバル達との死闘



そしてサッカーだけでなく



サッカーを運営するための経営という部分にも



多くの指摘が入り



市民を司る行政の積極的な参画まで求められるようになった



結果的には町田市全体が一丸にならないと



Jリーグの扉は開けられなかった



くにのみなもをきわむるところ 國水社
名将 ランコ・ポポヴィッチ


他のJリーグチームやJリーグを目指すチームと違い



インフラの土台も脆弱で



大きなバックアップも持たない町田ゼルビアは



限られた資源と



何十年もかけて構築してきた育成システムと



その人間の能力を見抜く慧眼で



文字通り人材を中心に勝負する以外選択は無かった



くにのみなもをきわむるところ 國水社

くにのみなもをきわむるところ 國水社

2010年相馬直樹監督率いる



相馬ゼルビアは



Jリーグ昇格まであと一歩のところで涙をのんだ



持たざる者の敗北だったかもしれない



しかしそれをもバネに



2011年はさらに厳しい状況下でありながら



再チャレンジせざるをえなかった



それは町田の未来のために



くにのみなもをきわむるところ 國水社
この子供達の町田のために


そしてこの日を迎えたのであった



本当に多くの人々の



思いとその礎が



無し得た結晶であり



他のチームの事情はどうであれ



町田は町田の意地を通した結果だと思われる



くにのみなもをきわむるところ 國水社


一つの願いは達成された



しかし、これはスタートラインに立ったに過ぎない



これからが本当の少年サッカーの町



町田の



真価が問われる戦いがはじまる



くにのみなもをきわむるところ 國水社