上里菅原神社 ウクライナ語の御朱印(埼玉県児玉郡上里町帯刀) | まほろば御朱印紀行

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 埼玉県児玉郡上里町に鎮座する上里菅原神社に参拝する。

 神社専用の駐車場は2箇所ありました。自動車は10台以上は停められそうです。


 こちらの神社の由緒は以下通りです(大修館書店刊『日本の神仏の辞典』による)。
「【菅原神社】
 埼玉県児玉郡上里町帯刀の旧郷社。祭神は武夷鳥神・火雷神・菅原道真。例祭は3月25日。
 紀友成が諸国を回遊していたおり、村民が菅公の画像を請願し武夷鳥神・火雷神を併祭して、天暦二年(948)に社殿を建立した。明治初年に天満宮から改称した。」

 また、由緒書きによると次の通りです。
「今からおよそ千百年前の平安時代、延喜(901〜923)の頃、陰陽博士紀友成が、全国回遊の途中当村に立ち寄った時、村民が『菅原道真公』の絵姿を請い、併せて『武夷鳥神』・『火雷神』を祭って、天暦三年(949)9月、社殿を創建したと伝えられています。その後、仇討ちで有名な曽我兄弟の祖父伊藤祐親が治承年間(1177〜80)に浄財を集めて社殿を改築しましたが、新田氏北條氏等の数度の戦火に罹り焼亡しました。その後、後醍醐天皇の建武二年(1335)、村民の手によって社殿が再建され、江戸時代に至っては、領主伊東刑部左衛門が社殿を修復したと伝えられています。明治五年、社格が村社に指定され、同三十三年3月19日には、郷社に昇格しました。当社は、往古より『天満宮』と称されていましたが、明治三十四年(1901)に現在の『菅原神社』に改称、平成十九年(2007)に社殿が改築され、現在に至っております。」


 鳥居になります。
 参道には梅が咲いていました。
 社殿。
 「菅原道真公」を祭神とする神社だ。
 境内には案内板があり、由緒が記載されていました。
「第62回伊勢神宮式年遷宮記念
菅原神社 御由緒
    上里町帯刀235
□御縁起(歴史)
 帯刀は、神流川右岸の沖積扇状地に位置している。地内には径20㍍前後の円墳が散在しており、主体部の形態などから六世紀中葉から七世紀中葉に築造されたと考えられている。地名については、久寿年間(1154〜1156)に春宮帯刀義賢(源義朝の弟)を当地に葬り、以後帯刀村と称したという。
 当社はこの帯刀の鎮守として祀られている社で、『明細帳』によると、陰陽博士紀友成が日本回国の末に当村に来た際、村民は菅原道真公の絵姿を請い、これに武夷鳥神と火雷神を併せ祀り、天暦三年(949)9月に至り、社殿を創立した。その後、治承年中(1177〜1181)に伊東祐親の寄進により社殿が改築された。しかし、度重なる戦火で社殿が焼失したため、村民により再興された。江戸時代に至り地頭伊藤刑部左衛門により社殿が修復されたという。
 一方、『風土記稿』帯刀村の項には『天満宮 村の鎮守にて福昌寺持』とある。これに見える別当の福昌寺は春宮帯刀義賢の菩提のため、金久保村陽雲寺の天英祥貞和尚が義賢墳墓の側に一寺を建立したことに始まると伝える曹洞宗の寺院である。
 明治初年に社号を菅原神社と改め、同五年に村社となり、更に同三十三年に郷社に昇格、翌三十四年に菅原神社と改称した。なお神仏分離後の祀職は梅林千教ー千葉義一梅林郷司ー梅林肇と継いでいる。

□ 御祭神
菅原道真公 火雷神 武夷鳥神

□ 御祭日
元旦祭(1月1日)
春祭り(3月25日)
大祓(7月25日)
秋祭り(10月19日)
新嘗祭(12月15日)」

 もう一つの案内板によると由緒は次の通りです。
「菅原神社
   所在地 上里町帯刀235
 菅原神社は縁起によると、治承年間(1177〜1181)に伊藤祐親が改築したが、度重なる戦火に焼失し、建武二年(1335)村民により再建されたと伝えられているので、かなり古い時代に創立されたものと思われる。江戸時代に至り地頭伊東刑部左衛門により修繕されたといわれている。
 古くは、天満宮と称されていたが、明治時代の始めに菅原神社と改称された。
 祭神は、武夷鳥神、火雷神、菅原道真公である。また、境内には、厳島神社、秋葉神社、稲荷神社、八坂神社、八幡皇太春日神社がまつられている。
 昭和六十一年三月
  埼玉県
  上里町」

 子育て三猿。
 社務所。
 社務所にて御朱印を頂きました。珍しくウクライナ語の御朱印がありましたので頂きました。御朱印代は300円です。



神社名:上里菅原神社
鎮座地:埼玉県児玉郡上里町帯刀235番地
祭 神:菅原道真公 武夷鳥神 火雷神
社格等:旧郷社