鳳陽山国瑞寺 観音様の御朱印(群馬県みどり市笠懸町) | まほろば御朱印紀行

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 群馬県みどり市にある黄檗宗に属するお寺になります。

 国道50号線の「鹿」という交差点の近くにお寺はありました。50号線からお寺まで入れますが、片側ニ車線のため、自動車で行かれる方は、前橋から桐生方向に走行していないと、無理です。

 最寄り駅は、JR両毛線「岩宿駅」になります。徒歩では、15~20分位ではないかと思われます。

 駐車場は、山門の左側の入り口を入り、境内の左側にありました。自動車は、10台は停められます。また、山門の右側にもあり、自動車は、5台は停められます。

 こちらのお寺は、お寺周辺にある江戸幕府の天領の代官であった「岡登景能」が開基となり、延元年(1673)に創建されそうです。


 こちらの寺院の由緒は、次の通りです(笠懸村誌による)。
「国瑞寺は鳳陽山国瑞禅寺といい、通称山寺といわれている。
 檀家には鹿の川の家々が多い。それは鹿の川にあった宝源寺が明治三十三年に火災にあって焼失してしまったため黄檗宗の同宗国瑞寺の檀家になった。岡登影能の開基になり、本尊は釈迦如来である。桃頭の人々の多くは戦後国瑞寺へ寺替えしている。
 臥龍庵は国瑞寺の末寺で本尊は禅定観世音菩薩であるが四天王も祀られている。」

 山門横の案内板によると、次の通りです。
「鳳陽山国瑞寺(通称やまでら)
 ここ国瑞寺は徳川四代将軍家綱公のころ、推定、寛文7年(1667)に笠懸野を開発された時の代官岡登影能公によって創建され、延宝元年(1673)、景能公が師事されていた独湛性瑩禅師(後の黄檗宗4代管長)により開かれました。
 影能公は笠懸野の荒れた大地に農業や街道、宿場町などを作り上げ、この地を生活出来る場に変えられました。しかし、その大きな功績や名声を妬む人々により結果、切腹という不遇の最後を遂げられました。当時の国瑞寺住職であった桃巖(岩)禅師は、そのような人々のいる世情にあっても、正しき眼により影能公の人柄、功績を称え、岡登雪江伝という書物を残されました。
 国瑞寺には、この岡登雪江伝の他、景龍公が切腹した際の短刀、お位牌があり、現在地近くにはお墓があります。
 また、周辺にはみどり農協西側に法源苑墓地、国道50号の信号より南に向かいシバタ薬局付近に光明苑墓地、久宮には四天王山臥龍庵(国瑞寺別院末寺)を所有、管理しています。
 現在の山門は東京より移築し、建物は本堂改築、客殿建立、平成15年(2003)に落慶法要が行われ、現在に至っております。

*雪江伝、景能公短刀、お位牌の常時公開はしておりません。
*御朱印希望の方は本堂続きの東側建物(客殿)にお越し下さい」

 国道50号線から山門を望む。
 山門になります。
 黄檗宗らしい中国風の山門になります。高崎市の少林山達磨寺の山門になります。

 山門脇の石塔です。
 右から不動明王、不動明王、二十三夜塔、阿弥陀如来、法華経になります。

 本堂になります。
 釈迦牟尼仏が祀られています。

 お地蔵様。
 岡昇影能のお墓です。
 岡登影能とはこの地の代官だった人物。案内板によると、次の通りです。
「県指定史跡
岡上次郎兵衛景能の墓
指 定 昭和二十七年11月11日
所在地 笠懸町大字阿左美1616

 景能公は埼玉県児玉郡高柳村に生まれ、父景親の後を受け寛文二年(1662年)将軍家綱の時、幕命により笠懸野に陣屋を築き代官として移住した。生来剛直、淡白で国のため、人のためになることならば世論に関せずただ実行に命をかけても遂行する立派な開拓人であった。
 当時笠懸野は原野で、水利が悪く耕作皆無の状態で荒れはてた土地であった。景能公は、この土地に水をかんがいするために渡良瀬川より水を引き、寛文十二年(1672年)10年以上の年月をついやして岡登用水濠を完成させた用水堀の長さは24キロメートルに達し、笠懸町・藪塚本町・新田町・佐波郡赤堀町・東村の七ヶ町村にわたり、荒野に農業が可能となる、現在の笠懸町に発展した。しかしこの大事業も、心なき人々の悪口、同僚官吏による焼下流住民の余水の湧き出し等苦言により、幕府に召喚され貞享四年(1687年)12月3日切腹を申し付けられ自害した。当時五十余歳といわれている。そのご生前の功労により大正四年11月10日追賞を受け従五位を贈られた。」

 御朱印は、本堂右側の庫裡で頂けました。御朱印代は300円です。



 

寺院名:鳳陽山 国瑞寺
所在地:群馬県みどり市笠懸町阿左美1614番地
宗 派:黄檗宗
本 尊:釈迦如来
札所等:上州準四国八十八ヶ所 一番札所