新年が始まって間もないので、大学には人がまばらだ。日が落ちようとする頃になると、なおさらだ。しかし、五限開講の多い教職の授業はこれから始まる。夕日が黒板を眩しく照らす教室に、いつものメンバーと、先生が久しぶりに集まった。

 

 今日の内容は、模擬授業である。学期の終盤に差し掛かり、いよいよ、学生一人一人が、実際に授業を行う時が来たのである。

 

 今日模擬授業を行うのは、私と同学年(3年)の友人である。彼が扱う教材は、内田樹氏の『言葉は「ものの名前」ではない』だ。

 

 前半は、本文と類似する内容の丸山圭三郎による『言葉とは何か』という評論と比較しながら、本文の内容を理解する活動を行った。歯切れがよく明快な活動であった為、あっという間に終えてしまった。本評論を読んだことのない方も多いであろうから、ざっと、私たちが活動を通して把握した内容を要約すると、次のようになる。

 「ギリシャ以来の伝統的な言語観によれば、言葉とは『ものの名前』」である。だが、「この言語観は、いささか問題のある前提に立ってい」る。「それは、『名付けられる前から既にものはあった。』という前提」である。これは本当は間違っている。
 「言語活動とは、『既に分節されたもの』に名を与えるのではなく、(中略)非定型的で星雲状の世界を切り分ける作業そのもの」である。

内田樹氏『言葉は「ものの名前」ではない』

 

 特筆すべきは、授業で発せられた最後の問いである。


 本文を踏まえ、「私たちが、高校で国語を学んだり、大学入試で現代文を課されるのはなぜだろうか。」ということを考えさせる発問であった。

 

 本文を踏まえ、この問いに対峙すると、現代文(主に評論)とは、社会を独自の切り分け方で規定していく作業なのではないかという考えに至った。

 

 私たちは、学校で様々な知識を学んでいくが、それは、思想・宗教などの土台に立脚する何らかの方法で社会の様々な事柄を規定した産物に過ぎない。社会の切り分け方は、他にもたくさんあるということだ。

 

 例えば、歴史。我々は教科書で学ぶ歴史が当然正しいと思っているが、「弥生人は、自分たちを弥生人だと思って生きていた訳ではない」「ルネサンス期の人間は、今がルネサンスと思って芸術活動や学問をしていた訳ではない」といった例からも分かるように、時間の流れを何らかの考えに基づいて「切り分けた」に過ぎない。
 また、美術。絵画作品のタイトルを作者がつけるようになったのは、近代の展覧会制度の賜物で、それ以前の作品についている題は、後世の人がつけたものが多い。ここにも、本文に通づるものがある。

 

 こういった、「切り分け方の別解」を示すのが、評論である。それらと向き合うことで、自分の考え方を俯瞰したり、新たな考え方を自分に取り込むことが可能になる。こうして社会を客観的・多角的に見ることができるようになった生徒たちが、将来、社会を新たな切り口から変えていくのである。

 

 この評論は、評論と向き合う意味を、高校生たちに教えてくれる。そんな力を持った教材なのである。皆さまも、是非ご一読を。

 

※サムネイル画像の教科書は、当該教材を掲載するものではありませぬ。イメージです。