山の日とその振替休日だった日曜日と月曜日。長かったオリンピックも漸く終りました。夏休み真盛りですが、大きくなった子どもたちはそれぞれ仕事やアルバイトに励んでいるので、少しも夏休み気分になりません。
パリ2024で柔道やレスリングを観ているうちに、アルセーヌ・ルパンが実は柔道の達人だったことを思い出しました。このことを初めて知って意外に感じたのは、子どもの頃、ポプラ社の全集を読んでいたときでした。
当時の書籍が手許に在りませんので詳しい展開は不明なのですが、追うガニマール警部にルパンが《腕ひしぎ》を掛け乍ら、
「これは日本柔道の腕ひしぎという技だよ。」
とルパンが言うのです。
原作者のモーリス・ルブランは一体何処で柔道を見たのか 原文ではどのように技の紹介をしているのか 非常に興味が湧きました。
しかし、ポプラ社全集の翻訳者南洋一郎は、少年読み物として面白ければ原作どおりでなくても構わないという姿勢だったことを大人になってから知りましたから、「原作には《腕ひしぎ》などという技は出て来ないのではないか」という疑問も抱き続けていました。
念のため、Wikipedia《南洋一郎》の項目を確認すると、ポプラ社版全集について、
「この全集はモーリス・ルブランの原作を、少年少女向けに大幅に改筆・圧縮した翻案作品として位置づけられている。」
と記述していました。確かに、大人になってから堀口大學訳の《813》を読むと少し間延びした感覚を受けましたし、本格推理ものの短編以外はかなり芝居がかった科白回しも見受けられます。
第一作《ルパンの逮捕》が発表されたのは、1905(明治38)年ですが、この年、講道館開設者の嘉納治五郎先生は45歳。身体の弱かった先生は父に反対され乍らも、東京大学(開成学校)に進む前から柔術の達人を探し求めて稽古に通い、大学時代には訪日中のグラント前合衆国大統領の前で柔術を披露したとか。Wikipedia《嘉納治五郎》の項目によると、演武するよう指示したのは渋沢栄一翁、対戦相手は五代友厚の養子で嘉納先生の学友だった五代竜作だったということです。
東京大学で政治学、経済学、哲学を修めた嘉納先生は卒業後22歳にして講道館を開設。1905年と言うと、教育者・文部官僚として脂の乗り切っていた頃で、清国留学生の為の学校を開設して魯迅たちを教えていたようです。
この頃既に幕府の体育指導者だったフランス人や明治政府のお雇い外国人だったイギリス人を通じて日本の柔術家が英仏に渡っていたようで、彼らから柔術を学んだフランス人のエルネスト・レニエという人が当時盛んに異種格闘技戦を公開していたようです。
2012年9月27日付のアエラ・ドットに掲載された記事によると、1905年に「人気の拳闘家ジョルジュ・デュボア」とエルネスト・レニエが異種格闘技戦を実施したそうです。この対戦でレニエは足固めでデュボアを倒した後、《ユディシギ》を掛けるとデュボアはすかさずタップしたという別の記録も目にしました。
上掲記事では対戦者のデュボアについて《拳闘家》と紹介していますが、アルセーヌ・ルパンが父テオフラスト・ルパン(リュパン)に伝授された総合格闘技《サバット》の選手だったのかも知れません。
こちらの方のブログを拝見すると、ルブランは1906年に発表された《ルパンの脱獄》の中で、ルパンに次のような科白を吐かせているそうです。
「オルフェーブル河岸でジュウドウを習っていたら、この手は日本語でウデヒシギだってことがわかるだろうよ」
(☞但し、引用者によると、原文でジュウドウはjiu-jitsu、ウデヒシギはudi-shi-ghiと綴られているそうです。)
発表された1906年という時期を考慮すると、ルブランはどうやらレニエ対デュボア戦の結果を新聞で読んで知っていて、いち早く作品に取り入れたようでした。
子どもの頃の記憶を辿って、ルパンがガニマール警部に仕掛けたのが本当に腕ひしぎだったのか調べて行くと、既に大勢の方が《ルパンの脱獄》の中のこの場面を知っていて、当時のフランスの柔術事情についても検証していたことに驚かされました。
1人前をわざわざ作るのも却って面倒なので、こくらげ夫人とこくらげ姉妹2号用に作り置きました。