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 海の日の午前中、高輪ゲートウェイ駅前の桂坂を上り、桜田通りに出て来ました。白金地区に入り、明学の広いキャンパスを横目に桜田通りを下って行きました。

 清正公前交差点を渡って左手に高輪消防署本署を見乍ら桜田通りを更に下って行くと、消防署の先に高い擁壁が見えて来ます。
 
 国道1号線でも在る桜田通りに面しているので如何にも固定資産税が高くなりそうにも拘らず、桜田通りとはこの高い擁壁で接しているお蔭で売るに売れなかった約1.9haのこの土地には、嘗て東京都の白金第一・第二住宅白金寮が在りました。

 南側の消防署と北側の擁壁の間に敷地の中に続く通路が在るのですが、しっかり閉じられていました。
 
 インターネット上に往時の東京都職員白金住宅の姿が残っていないものか検索してみると、貴重な記録を残して置いて下さっている方がいらっしゃいました。

 こちらの土地は織田有楽斎の子孫大和国芝村藩織田家の下屋敷が在った場所で、歴代藩主の菩提寺は泉岳寺とのこと。ところが、明治に入ると最後の藩主11代織田長易の子どもたちが何れも早世した所為でしょうか、1913(大正2)年に伊予国宇和島藩伊達家に売却しました。

 
 擁壁に沿って歩いて行くと、道はやがて桜田通りから離れ、左に曲ると三光坂に向って立行寺・重秀寺という2つの寺と氷川神社が並んでいるのが見えて来ます。先程、芝村藩歴代藩主の菩提寺は泉岳寺と言ったばかりですが、長易公の三男長純子爵と六男長表(ながすえ)の墓所は重秀寺でした。
 
 大正2年当時の宇和島藩伊達家当主は貴族院議員侯爵伊達宗陳でしたが、新たに入手したこの土地に新たに建築したのが江戸東京たてもの園に移築された《伊達家の門》。門の右側には番所が付随していて、嘗ては巡査を常駐させていたそうですが、どんなふうに建てられていたのか、当時はこの高い擁壁は無かったのかが気になっています。
 
 伊達家の門が小金井公園内に移築されたのは昭和40(1965)年だそうですから、その前に東京都がこの土地を取得している筈ですが、取得の経緯は承知していません。売るに売れない土地でしたが、斜向いの高松宮邸が一時上皇上皇后両陛下の御仮寓所として使用されたことを鑑みると、タワマンなどが建てられなくて良かったと思います。5年程前に、当地に都立新国際高校の建設が公表されましたが、着工はまだまだ先のようでした。
 氷川神社の先の角を曲がると三光坂にぶつかるので、左に曲って坂を上って行くと左側に延々と塀が連なっています。何処迄続くのか訝り乍ら上って行くと、巨大な門が目の前に現れました。
 門の右側には公衆電話ボックスも在ります。これが服部時計店創始者服部金太郎さんがお建てになった邸宅、所謂ハットリハウスだったのですね。
 門の前から三光坂を振り返ってみるとこんな感じ。伊達侯爵邸より少し狭い約1.7haの広さが在るこの地所も、元は米沢藩上杉家下屋敷だったものを外交官や銀行家を歴任した園田孝吉氏が購入。しかし、関東大震災で園田氏が亡くなった後、その年のうちに服部氏が地所を譲り受けたのだそうです。
 
 ハットリハウスの横の細道を下ってみます。

 目の前に都ホテル東京が見え、目黒通り沿いにタワマンが立ち並んでいますが、これらのタワマンが皆服部金太郎さんの屋敷下だったことに驚きます。
 
 何年か前にシンガポールの不動産会社が取得したと聞いていたのですが、改めて調べてみたところ、国内のマンションデベロッパーが買い取ったとのこと。果たして、こちらにもタワマンが建つのでしょうかはてなマーク
 
 お寺や神社、広大な空き地・空き家の連担するこの界隈にはタヌキも徘徊していますが、タワマンばかりが立ち並ぶようになると、タヌキが子育てする場所が無くなって仕舞うのではないかと心配です。
 
 目黒通りに下りるとき、麓に建つタワマンの駐車場から野太いエンジン音が聞こえて来たので覗いてみたら、住民の方が弄っていたのはデロリアンでした。
 再び桜田通りに出て、その侭古川橋に向います。超高層ビルが増えて知らない街並みのようですが、複雑な地形は変えようが在りません。交差点で正面を見渡してみると、2つのビルの間には上り坂が在り、左側のビルの左は谷になっていました。
 右側に目を遣るとこちらは魚籃坂下ですね。
 都心に住むお金は在りませんが、東京都心のこの高低差も毎日の生活には負担ではないでしょうかはてなマーク などと考えていたところ、道路脇に公衆トイレと喫煙所が目に入りましたのでお世話になりました。《老増町公衆便所》という古い表示のお蔭で、この辺りが昔の三田老増町ということが判りました。
 更に進むと小川書店が見えて来ました。此処を左に曲れば古川橋のバス停です。
 古川橋を越えて左折すると直ぐ古川橋のバス停。先に渋谷駅行が来ましたので、暫く待って品97系統新宿駅西口行に乗車。休日だというのに車内は満員で、バス停ごとに降りては乗っての繰り返し。信濃町近く迄立っていましたので、車窓を十分楽しむことが出来ませんでした。
 新宿区に入ったバスは靖国通りを通って新宿駅へ。駅前再開発のために多くのビルが取り壊されたお蔭で新宿の空が広々していました。