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 妄想の無限ループから自分を切り離す方法としてのマインドフルネスには勿論意味が在りますが、他にも考えたいことがいっぱい在る人はマインドフルになる暇が無かったのではないかはてなマーク カントやルソーがマインドフルな散歩をしたとは思えません。
 
 仕事や日常生活に待ち受けるさまざまな面倒に心を占領されて堂々巡りをして仕舞う人にはマインドフルネスがお勧めかも知れませんが、さまざまな考えの種が次々に湧いて来ると考えなければならないことが多過ぎて、到底マインドフルでは居られないのではありますまいかはてなマーク
 昔、同志社出身の浜村淳さんが一時期「流離いの旅芸人」と自己紹介していらっしゃいましたが、本当に旅芸人一家で育ったお笑いさんはかしまし娘さんが最後かも知れませんね。
 
♪うちら陽気なかしまし娘
♪女三人寄〜ったら 姦しいとは愉快だね
♪very good,good. very good,goodビックリマーク
♪お笑い お喋り ミュージック
♪明るく唄って night and day
♪ピーチクパーチク姦しい

 つい先日のNHK-G《あの人に会いたい》(6月1日OA)で今年1月に亡くなった正司歌江師匠のお姿を拝見したばかりでしたのに、後を追うように次女の正司照枝師匠がお亡くなりになって仕舞いました。

 去年11月18日に放送された《よみがえる新日本紀行》では44年前の《最初のニュータウン~大阪・千里~》を紹介。番組の中でレポーターを務めていらした照枝師匠が、番組の最後で登場。すっかり御髪は白くなられましたが、同じ千里ニュータウンにお住いの花江師匠がおばんざいを持って照枝師匠のご自宅を来訪し、息の合った会話を披露していらっしゃいました。

 かしまし娘はフラワーショーやジョウサンズなどの女性音曲漫才の走りでしたが、漫才の内容は歌謡漫才と言うよりも寧ろしゃべくり漫才と言って良く、中田ダイマル・ラケット、夢路いとし・喜味こいし師匠とともに戦後の上方漫才を牽引して来られたユニットの1つと言わなければならないでしょう。漫才ブームに火が点く迄は、これらの大師匠の品の良いお笑いを読売テレビ《お笑いネットワーク》で月曜日から金曜日迄毎日視聴することが出来た大変良い時代でした。

 

 正司照枝師匠の訃報に触れて半世紀前のお笑いについてあれこれと考えてみたのですが、何を以て《お笑いブーム》と言えば良いのでしょうかはてなマーク

 

 三河萬歳、安来節、浪花節。都会の生活者の娯楽として受けそうな地方の演芸の数々を戦前から席亭が舞台に上げて来ましたが、サラリーマンが人口の半分を占めるようになった大東京・大大阪にぴたりと嵌って、電波を使ってブームを起こしたのはエンタツ・アチャコでしたね。此処を起点として、東京ではリーガル千太・万吉、リーガル天才・秀才、コロムビアトップ・ライト、獅子てんや・瀬戸わんやへと続いて行き、大阪では中田ダイマル・ラケット、夢路いとし・喜味こいしを中心とするしゃべくり漫才へと続いて行きます。

 

 昭和10年代に生れた都会的なしゃべくり万歳にコントも加えた演芸ブームが到来するのが1967年前後で、筆頭に立っていたのがしゃべくり漫才の青空チック・タックとWけんじ。クレージー・キャッツやザ・ドリフターズなどのミュージシャンが先鞭を付けたコントの分野ではコント55号が一躍していました。

 

 この間、澤田隆治さんなどのTVプロデューサーと秋田実・花登筺・香川登志夫などの漫才・喜劇作家のコラボによって関西発のお笑いが全国に発信されることになりますが、その直ぐ後の1970年代前半から、吉本興業が番組制作に関わるようになり、漫才のみならず、壊滅状態に在った上方落語の世界から笑福亭仁鶴・桂三枝を引き上げて新たなお笑いブームを巻き起こします。

 

 振り返ってみると、上方でも東京でも、1980年代前半の漫才ブーム以前にも何度も新しい演芸スタイルが途切れることなく生まれ続けていたものです。


 通勤の途中、お笑いのスタイルの変遷と都市住民の生活スタイルの変遷と重ね合せ乍ら仕事や日常生活とは全くかけ離れたことを考えて仕舞いました。