いまでこそ一極集中と言われる東京ですが、わたしの親の世代のようにB29が撒き散らすアルミ箔を拾って遊んだ田舎者が復興途上の大都会に出て来たのであって、そのB29に親兄弟を焼き殺された子どもたちが置き去りの侭、大都会が高度成長を迎えたことを思うと、自分自身、
「わたしたちが東京人でございますが何か」
というような不遜な顔をしていないか、気になります。
所詮わたしたちは大都会人が焼け死んだ後にやって来たお上りさんなのに、わたしたちの子どもたちは根っからの東京人のような意識で居るものですから、わたしは居心地悪いです。昭和20年台半ばに差し掛った《虎に翼》を観ていてそんな想いが過りました。
昭和22年に放送が開始された菊田一夫原作古関裕而音楽のラジオドラマ《鐘の鳴る丘》は昭和23年に映画化され、佐田啓二主演で3部作が製作されているので、昭和24年には地方でも大都会の戦災孤児問題の深刻さは認知されていたことでしょう。
《鐘の鳴る丘》は復員した青年が戦災孤児施設に収容された弟を引き取りに行って多くの戦災孤児と知り合い、戦災孤児の家を作ろうとするドラマですが、映画で主役を演じた佐田啓二は大正15年生れとのこと。わたしの老母の1学年上に当りますが、兵隊に取られること無く、上京して関口宏さんのお父様佐野周二さんの家に下宿して早稲田の専門部に通学。昭和22年に卒業すると、佐野周二さんに因んで佐田啓二の芸名を貰い、早くも田中絹代さんの相手役として映画デビュー。《鐘の鳴る丘》は2作目にして初出演作だったそうです。
何分《ふぞろいの林檎たち》世代のわたしですからラジオドラマは聴いたことが在りませんし、映画も観ていませんが、主題歌《とんがり帽子》が含まれたコロムビアレコードが家に在ったものですから、川田正子とコロムビアゆりかご会の歌声はすっかり耳に馴染んでいます。
先般も夕食時に《虎に翼》の録画を観た後、戦災孤児問題を初めて知ったような顔をしていたこくらげ姉妹1号に
「パパが生れたのはこの時代から十〇年後だから、子どもの頃、奈良公園に白い着物を着た傷痍軍人がまだ乞食をやっていたのを見たよ。」
「この翌年から朝鮮戦争が始まるから、済州島から逃げて来た人が沢山居たんだよ。」
などと話して聞かせると、「パパが生れたのはこの時代から十〇年後」という件で少し驚いた様子でした。
ドラマの背景をしつこく解説すると嫌がられるので普段は余りしないのですが、戦災孤児や傷痍軍人などの課題を置き去りにした侭、朝鮮戦争で発生した戦争特需を踏み台にして日本経済は高度成長へと踏み出したので、この時代を背景にしたドラマをわたしたちの世代は痛みを伴わずに観ることが出来ません。
戦争も戦後も見て来なかったわたしたちが、若い世代に現代史を伝える役回りになって仕舞いました、どうしましょう、貴一っちゃん
それにしても、今期の《虎に翼》程さまざまな論評を呼び起こす朝ドラが嘗て在ったでしょうか
6月18日付朝日新聞デジタルは、《久保田先輩》のモデルになった我が国初の女性弁護士の1人、中田正子(1910~2002)さんが暮した家が地元の人々によって守られていることを報じていました。
記事によると、中田弁護士は高等試験合格の後、「丸の内の法律事務所に採用された。だが5年後、夫の病が悪化して出身地の鳥取県若桜町で療養することになり、中田も東京を離れ」、生涯鳥取を離れなかったそうです。
1950年、嘗て「鳥取藩主に嫁いだ11代将軍徳川家斉の娘のために建てられた」旧岡崎邸という武家屋敷の半分を借り、自宅兼弁護士事務所を開設。しかし、2002年に中田さんがお亡くなりになった後、旧岡崎邸は解体されることになり、もう半分に曽祖父がお住まいだったという太田縁(ゆかり)さんらが驚いて資金を集め、グループで旧岡崎邸を買い取ったとのこと。現在も少しずつ修復を続け、活用方法を探しているそうです。
記事はまた、明治大学の校友会で実際に中田さんに会ったことの在る鳥取地域史研究会の小山富見男会長も取材。初めてお会いしたとき、「鳥取に日本初の女性弁護士がいる」と感動したそうです。
鳥取敬愛高校の社会科教諭を務めていたときは社会部の顧問だった小山さんの下で部員だった奥村寧子さんは鳥取市歴史博物館学芸員となって2006年に中田正子展を企画。今春の《虎に翼》のスタートに合せて、鳥取市青谷のあおや郷土館で再び中田正子展を開催したそうです。
中田正子さんについては、同じ日の朝日新聞デジタルが《正子先生朝ドラ化推進プロジェクト》を立ち上げた鳥取弁護士会の足立珠希弁護士の取組を伝えていました。
一方、6月18日付の女子SPAにはこんな記事も。
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この日、朝から降っていた雨が午後には勢いを増し、東海道山陽新幹線が一時運行を見合せたほか、東海道線も小田原以西の運行が取止めになりました。