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 昨日、《映像の世紀 バタフライエフェクト》を観ていると、幾度か全学連委員長唐牛健太郎の映像が出て来ました。

 

 60年安保の頃は生れてさえいなかったわたしですら全学連委員長唐牛健太郎の名まえは知っています。


 が、改めて唐牛や樺美智子の生れた時代を確認すると昭和12年。赤軍派の理論的支柱だった塩見孝也は昭和16年。当時の運動の中心に居たその他の人物の年齢も確認してみたのですが、戦後生れは殆ど居ませんでした。

 

 偶々自分の父母が無学歴だったためか、親と決定的な対立をすることは在りませんでしたが、団塊の世代というよりも寧ろ親と同世代のアジテーターに恫喝され、振り回されて来たかと思うと、腹が立つと言うか何と言うか。

 

 吉本隆明にせよ谷川雁にせよ、真面に対峙し理解しようとしたわたしたちが馬鹿だったとしか言いようが在りません。偉い人などと思わずハナから相手にしなければ良かった。


 アジテーターの煽りを相手にしないという戦略を意識的に採って来た積りの《シラケ世代》のわたしたちですが、知らず知らずのうちに彼らの《運動》に内心では引っ掻き回されて来たんだと再認識しました。

 

 いやはや、今更唐牛も唐十郎も要らないわ。


 偶々歴史を知っているわたしたち自身がその時代と今とを繋げているだけで、今しか知らない人々にとっては始めからどうでも良いことですわ。


 わたしたちこそ何時迄も安保闘争時代の思想状況を引き摺っていずに、遅蒔き乍らあの時代と訣別しなければならないと強く思いました。

 

 ところが、Wikipediaで唐牛健太郎の47年間の生涯を振り返ってみると、最晩年には徳田病院を開設した徳田虎雄と意気投合して、徳洲会病院の設立に奔走したりもしていたのは意外でした。

 

「今更唐牛も唐十郎も要らないわ」

 

と言ったばかりでしたが、この日は武蔵野徳洲会病院で半年振りに大腸の内視鏡検査をしなければならないのでした。

 この日、玄関先のユリが咲き始めました。
 こくらげ宇宙人姉妹2号はいつものように5時過ぎに起きて顔を洗い、スマホを観乍ら朝食を食べ、こくらげ宇宙人姉妹1号やこくらげ宇宙人夫人が仕事に出掛けた後、長い長い身繕いを終えて漸く出て行きました。
 
 みんなが出て行って仕舞った後のチヨコちゃん。暫くすると、ケージに戻って大人しく寝ていました。
 
 わたしは半年振りの内視鏡検査のため、朝5時過ぎからモビプレップ2リットルを少しずつ飲んでは腸内洗浄に午前中を費やしました。お腹は痛くなるし、お腹も空きますが、モビプレップと水以外何も口にすることが出来ません。いつもより少し遅く午前3時過ぎから起きていたので、病院に行く前に既に眠くなって来ました。

 

 13時過ぎに病院に行き、手術着に着替えて処置室に入ったのですが、余程麻酔の効きが良かったのか、気が付いたときにはストレッチャーで別室に移動するところ。腕に針を刺して横になった侭、その間の記憶が全く飛んでいました。