毎月28日の《とりの日》が来る度KFCのお店に立ち寄っていましたが、アプリ改悪以降すっかり足が遠のいて仕舞いました。
とりの日パックはオリジナルチキン4ピースとチキンナゲット5ピースですが、「ナゲット要らないよな~」と考え始めたら、何か他のキャンペーンでも無い限り、暫く行かないかも知れません。
ブログスタンプを見て気が付いたのですが、5月25日は1945(昭和20)年に米軍による山の手空襲が行われた日でした。
《虎に翼》の舞台が登戸に移ったのはいつからでしたでしょうか
5月6日付のiza【朝ドラ「虎に翼」直言(岡部たかし)が銀行員から「登戸火工」社長に! SNS「将来軍需工場に?」「楽しそうで何より」など反応さまざま】を読むと、
「この日からドラマは第6週『女の一念、岩をも通す?』(第26~30話)が始まり、『共亜事件』の裁判で無罪となった直言が、長年勤めた帝都銀行を退職し、発煙筒や信号弾を製造する登戸火工の社長になったことが『語り」で説明された。直言は、河川敷にある工場で社員とともに発射実験に臨み、『1番、2番、点火!』と号令。部下に指示を出すなど、生き生きと働く姿が描かれた。銀行を辞めても、猪爪家の生活が不安定になっているような描写はなく、家庭内も至って平和そのものに見えたことから、登戸火工の経営は順調と見られる。」
と書かれていました。けれども、この新たな設定に対するSNSの反応は
「火薬の会社ということに、心がざわざわします」
「将来的に軍需工場になるのかな?」
「戦後、戦犯にならない? GHQに捕まらない?」
「戦中は大儲けできるけど戦後パージされるってフラグじゃ…」
などなど。お父さんを心配する声が多数上がっていたそうです。
しかし乍ら、戦後生れ乍ら多くの視聴者に比べれば多少なりとも戦時中のことを知っているわたしにとっては《登戸》という言葉の響きが不穏で不穏で仕方在りませんでした。今では考えられないかも知れませんが、登戸と聞けば、謀略工作や秘密兵器の研究で知られる第九陸軍技術研究所、通称《登戸研究所》を思い出すからです。
わたしの考察を先に言って仕舞うと、登戸という場所設定は、陸軍登戸研究所▶明治大学生田キャンパスという繋がりを暗示するとともに、明治大学出身の三淵嘉子判事が
「原爆投下は、戦時国際法・国際人道法上、違法」
とする判決文を書くための布石になっているような気がしてなりません。
1950(昭和25)年に登戸研究所跡地を購入した明治大学は平和教育登戸研究所資料館を開設。設立趣意書は次のように謳っています。
「登戸研究所は、戦前日本の戦争・軍隊を知る上で、きわめて貴重な戦争遺跡のひとつです。登戸研究所は、戦争には必ず付随する『秘密戦』(防諜・諜報・謀略・宣伝)という側面を担っていた研究所であり、そのため、その活動は、戦争の隠された裏面を示しているといえます。」
「登戸研究所の研究内容やそこで開発された兵器・資材などは、時には人道上あるいは国際法規上、大きな問題を有するものも含まれています。しかし、私たちはこうした戦争の暗部ともいえる部分を直視し、戦争の本質や戦前の日本軍がおこなってきた諸活動の一端を、冷静に後世に語り継いでいく必要があると思っています。」
「それは、私たち大学と同じ科学研究にあたる場が、戦争という目的のためには、場合によっては尋常な理性と人間性を喪失してしまいかねない機能をもってしまうことを強く自戒するためでもあります。」
上掲した明治大学平和教育登戸研究所資料館のサイトが掲げる年表には、
◆陸軍科学研究所、電波兵器研究を開始(く号兵器) 1936年
◆雷雲を利用した兵器の開発開始 1938年
◆1941年に入り、登戸研究所、本格的に偽札製造をおこなう 1941年
◆「満州国」の731部隊や日本軍占領地で登戸研究所の所員が人体実験を行う 1941年
◆登戸研究所、千葉県一宮海岸で風船爆弾の実験をおこなう 1944年
などのおぞましい出来事が並び、1945年8月15日以降には
◆登戸研究所では陸軍中央からの命令により証拠の隠滅が図られる 1945年
◆米軍、登戸研究所施設の接収をおこなう 1946年
◆極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷、登戸研究所関係者は訴追されず 1946年
という記述が並んでいました。
終戦後、お父さんがドラム缶で沢山の書類を焼いているシーンを目にしましたが、陸軍登戸研究所に関係の在る書類だったのでしょうか
経緯を知る世代の人間が《登戸》という地名を聞けば登戸研究所を思い出しますし、その跡地は戦後、明治大学生田キャンパスとして生れ変ったことを知っていますから、お父さんの工場の立地が登戸という設定は、実に意味深長な設定であると言えます。
1955(昭和30)年、広島・長崎の被爆者が国を相手取って慰謝料請求訴訟を提訴。原告の1人の名を取って後に下田事件と呼ばれるこの訴訟事件は、一名《原爆裁判》と呼ばれることになります。
1968(昭和43)年12月7日に東京地方裁判所は原告の請求を退ける一方、戦時国際法・国際人道法は
◆非戦闘員や非軍事施設への攻撃を原則禁止
◆不必要な苦痛を与える兵器の使用を禁止
していることを根拠として、原爆投下はこの2つの原則に何れも違反していると判決しました。
この判決文を書いた3人の裁判官の1人が《虎に翼》のモデル三淵嘉子さんでした。
原爆裁判を風化させない取組を続けているのは専ら中国新聞ですが、昨年12月12日付の記事によると「原告、政府とも控訴せず、判決は確定した」とのこと。この裁判の意義について同記事は
「被爆者たちの敗訴だったにもかかわらずこの裁判が注目されるのは、国内外にさまざまな影響を及ぼしたからだ。国内では提訴後の57年に原爆医療法、判決後の68年に被爆者特別措置法が施行され、のちの被爆者援護法制定につながった。」
「国際的意義も大きい。核兵器の使用・威嚇は『一般的に国際法違反』とした96年の国際司法裁判所(ICJ)の勧告的意見にも影響を及ぼしたとされる。その前年、ICJで陳述に立った当時の平岡敬広島市長は『原爆裁判』を踏まえ、核兵器の使用はもちろん『開発・保有・実験も…国際法に反する』と訴えた。非人道性という観点からの機運が生まれ、禁止条約制定への道筋となる。」
と綴っていました。
登戸という場所が、戦後の三淵嘉子さんの戦いの足跡を描くための巨大な布石であり舞台装置であるとすると、わたしたちは何度もこの脚本に驚かされることになりそうです。
この日・・・・・・、
チヨコちゃんがこくらげ夫人に連れられて何処かに出掛けた後、多摩湖自転車道を歩いてみることにしました。鈴木街道と多摩湖自転車道の交差点近くでは、もうザクロの花が満開に近付いていました。
直ぐ近くのビワの実は既に大きくなっていました。
その近くではイイギリの大木が青い実を付け始めていました。
この季節の多摩湖自転車道の名物はアジサイではないでしょうか
こちらはシャリンバイでしょうかね
植物園と違って名札が在る訳では在りませんので、品種も判りませんし、誰がいつ植えたのかも知りません。
が、幾つかの品種のアジサイが既に色とりどりに見頃になっていました。
ハクウンボクの青い実。
こちらはイボタノキのお花でしょうか
起点迄歩いてから千川上水に沿って歩き、境橋から再び多摩湖自転車道に戻りました。
宅地として整地された畑の中に、マツノキと絡んだ大きな木が残されていました。
ハコネウツギ。
シロバナキョウチクトウ。
自転車道の車道の上に蔓延った名まえの知らない植物から沢山のお花が咲いていました。
多摩湖自転車道を外れてバス通りを通ってスーパーを覗いてみると、この日は養殖アユとホワイトアスパラバスが目に付きました。
塩茹でにしたホワイトアスパラガスと塩焼きにしたアユで軽めの夕食にしました。