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 嗚呼、キダ先生。何にも言えません。つい先日、関西発ラジオ深夜便で先生のトークが再放送されたばかり。

 5月15日付日刊スポーツの記事が綴っていたように「通学圏内で一番上品だったから」という理由で関西学院中に進学されたキダ先生。翌5月16日付日刊スポーツ西日本報道部村上久美子記者の記名記事は【「下品」嫌ったキダ・タローさん 阪神は「熱狂的すぎて苦手」「モーツァルトよりもショパン」】と題して、キダ先生の言葉を引用しながらお人柄を偲んでいました。

 

「わたし、下品が嫌いなんです。」

「あまのじゃく言うのもあるけど、阪神ファンはよう熱狂的言われますやろ。上品じゃない。そういうのは苦手なんです。」

「モーツァルトよりもショパンが好き。あの繊細さ、あのピアノのタッチ。」

 

 記事は最後に「音楽の才だけではない、唯一無二の存在感。関西芸能界の宝だった。」と締め括っていましたが、正に同感。突然の訃報が信じられません。心よりお悔やみ申し上げます。

 キダ先生のこれらの言葉を文字で読んでいるうちに、先生の口調を思い出すとともに、同じように下品を嫌った在阪文化人だった画家の小出楢重(1887-1931)を思い出しました。
 
 今から100年程前、1930(昭和5)年に創元社が発行した《めでたき風景》所収の《大阪弁雑談》というエッセイの中で、大阪弁の共通語化について採り上げ、「ある、いろいろの苦しまぎれからでもあるか、近頃は大阪弁に国語のころもを着せた半端な言葉が随分現れ出したやうである。」と言って
 
「例へば『それを取つてくれ』といふ意味の事を、ある奥様たちは頂戴という字にいんかを結びつけて、ちよつとそれ取って頂戴いんかといつたりする。」
「『あのな』『そやな』の『な』を『ね』と改めた人も随分多い。『あのね』『そやね』『いふてるのんやけどね』等がある。」
「少し長い言葉では『これぼんぼん、そんな事したらいけませんやありませんか、あほですね』などがある。」
 
と《実例》を挙げた上で、
 
「これらの言葉の抑揚は、全くの大阪風であるからほとんど棒読みの響きを発する。従つてこれといふまとまつた表情を示さないものだから、何か交通巡査が怒つてゐるやうな、役人が命令してゐるやうな調子がある。多少神経がまがつてゐる時などこの言葉を聞くと、理由なしに腹が立つてくるのである。もし細君がこの言葉を発したら、到底あゝさうかと亭主は承知する訳には行くまいと思はれる位だ。『あなた、いけませんやないか』などいはれたら、何糞、もつとしてやれといふ気になるかも知れないと思ふ。妙に反抗心をそゝる響をもつた言葉である。」
「もしこの言葉と同じ意味の事柄を流暢な東京弁か、本当の大阪や京都弁で、ある表情を含めて申上げたら、男は直ちに柔順に承諾するであらうと考へる。」
 
と感想を綴っています。そして、
 
「私は、新らしい大阪人がいつまでもかゝる特殊にして半端な言葉を使つて、情けない気兼ねをしたり、ちぐはぐな感情を吐き出して困つてゐるのが気の毒で堪らないのである。あるひはそれほど困つてゐないのかも知れないが、私にはさやうに思へて仕方がないのである。」
 
と結んでいます。小出先生が100年後を生きるわたしたちの言葉を耳にしたらどうお思いになるかと心配になる程、現代の大阪人は《特殊にして半端な言葉》と使っている気がします。
 
 記憶を辿ると、「頂戴いんか」という言い回しを放送電波に乗せたのは笑福亭仁鶴師匠でした。「そんな事したらいけませんやありませんか」のような言葉遣いを放送電波に乗せたのは吉本新喜劇のチャーリー浜さんでした。
 
 どちらも、上品めかした《半端な言葉》の響きが面白いギャグの一種だった筈ですが、時代の変化とともに、これらが《半端な言葉》であるという意識が希薄になり、近頃の大阪人は
 
「これ、仕事帰りに買て来た。」
 
と平気で口にするようになりました。わたしなどは
 
「これ、仕事帰りに買て来た。」
 
と言うて貰わんとどうも腹具合の悪い、気づつない心持ちがするものです。小出先生が《大阪の紳士の喧嘩》として例示している「何んやもう一ぺんいふて見い、あほめ、たれめ、何吐してけつかる」という言い回しよりも「買って来た」という《半端な言葉》がわたしには下品に聞こえて仕方無いのですが如何なものでしょう。