金曜日の朝。JR武蔵境駅の改札を抜けて上りエスカレーターに向っていると、コンコースに駅員さんが手作りしたと思しきメッセージボードが貼られていました。
4月7日付乗りものニュースは、新宿・立川間に境駅と国分寺駅を設置した理由について、次のように記していました。
「それは『桜』のためです。武蔵境駅と国分寺駅のあいだには、北側に並行して『玉川上水』が流れています。その上水沿いに植えられた、小金井橋を中心とした東西計約6kmの桜並木は、江戸時代から『小金井桜』の名で轟いた名勝でした。」
「江戸市民からは遠すぎる存在だった小金井桜が、汽車でかんたんに行けるようになったというアピールは、大いに受けたようです。人々は境駅から、上水沿いを6km散策して、国分寺まで向かったといわれ、当時の雑誌などでもその人気ぶりを知ることができます。」
「周辺の農民は桜の時期には茶屋を営み、1年分の農業収入に匹敵するほどの稼ぎだったという話もあるほどです。」
先般、夭折した戦前の作家・編集者佐左木俊郎(1900-1933)の短編小説《仮装観桜会》を紹介したところですが、工場主に率いられた鉄工所の職工たちは新宿駅に集合して境駅で下車。現在のすきっぷ通りや独歩通りを通って桜橋から玉川上水堤をぞろぞろ歩いて行ったのでしょう。そして、観桜会で事件が発生しなければ、彼らは国分寺駅から帰りの汽車に乗ったのでしょう。
境駅・国分寺駅開業後の北多摩地域の変貌を乗りものニュースの記事は次のように記しています。
「境駅の開設と同時期に、駅から北の田無までを直線的に結ぶ『境新道』が開通しています。当時の周辺で随一の“街”だったのが、青梅街道の宿場として発展した田無で、境新道には駅馬車も運行されています。この境‐田無間は、いまでも路線バスの一大幹線ルートです。」
「一方の国分寺駅には、5年後に『川越鉄道』が開通し、乗換駅となります。川越鉄道は現在の西武国分寺線・新宿線にあたり、新宿方面から川越(現・本川越)駅まで直通運転も行われました。」
「大正時代に入るとますます小金井桜の賑わいは熱を帯び、1924(大正13)年、桜シーズンの仮乗降場として武蔵小金井駅が開業し、2年後には駅に昇格。小金井桜の中心地である小金井橋に最も近い駅となりました。」
「さらにその2年後の1927(昭和2)年には、西武鉄道(現・西武新宿線)の花小金井駅が小金井橋の北側に開業。この駅名も小金井桜にちなんだものです。」
「翌1928年の春には、ついに国分寺駅から北へ向かって小金井桜を“突っ切る”鉄道として、多摩湖鉄道(現・西武多摩湖線)が開業。当然ながら旅客誘致に小金井桜を猛アピールしました。」
記事を読んでいるうちに、小金井市内の上水堤にヤマザクラを観に行きたくなって参りましたが、まだ咲いているでしょうか