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 1973年の記憶。前年リーグ2位だった阪神タイガースはこの年も好調でしたが、甲子園球場に読売ジャイアンツを迎えた最終戦で完封され、9−0と大敗。荒れ狂った虎キチがグラウンドに乱入してジャイアンツ川上監督の胴上げを阻止し、追い出された場外でも荒れ狂っていたとか。

 

 場外の狼藉は見なかったものの、余りの大敗と虎キチの無法を目の当りにしたので、この日を境にタイガースと虎キチとの交わりを断絶しました。

 

 この頃パシフィックリーグで優勝を続けていたのは阪急ブレーブス。しかし、ブレーブスも日本シリーズでは川上監督率いるジャイアンツに日本一を許し続けていました。川上監督引退後の1975年にブレーブスは創設40年を前にして赤ヘル軍団を下して初めて日本シリーズを制し、翌年、翌々年は遂にジャイアンツを下して3連覇を達成しています。

 3月26日付読売新聞オンラインが、1920(大正9)年に日本で最初に設立された職業野球球団《日本運動協会》を採り上げているのを読んで、嘗てのブレーブスの思い出が蘇りました。

 記事を読んだ後で《日本運動協会》をキーワードにニュース検索したところ、2020年7月7日付産経新聞、同年9月25日付東京新聞Tokyo Webも採り上げていたことが判りました。

 初めて目にするチーム名でしたが、ゆりかもめ芝浦ふ頭駅にほど近い港区立埠頭少年野球場(港区海岸)に「『芝浦球場』跡地~日本初のプロ野球チーム発祥の地~」というプレートが残されているということです。 読売新聞オンラインによると、1964(昭和39)年に埠頭公園がオープンする際、芝浦球場に因んで少年野球場もオープン。日本運動協会はアメリカ遠征を経験した早稲田大学野球部OB押川清さんらが「日本球界の健全な発展のためには、米国のようなプロ野球が必要」との考えから設立した球団で、翌1921年に14人の選手を採用。養成期間を経て1922年6月から活動を開始し、実業団等との試合は103試合(67勝27敗9分)だったとのこと。
 しかし、翌1923年9月に関東大震災が発生し、芝浦球場も救援物資配給基地になって野球が続けられなくなったため、球団は1924年1月に解散したそうです。
 
 Wikipedia《日本運動協会》の項目によると、同球団解散の報を耳にした小林一三が宝塚の職員を上京させて同球団の継承を申し出、宝塚球場を拠点とする宝塚運動協会を設立。小林一三は
 
「グラウンドを持つ鉄道会社、たとえば東京ならば、京成電車、東横電車、関西ならば、阪神の甲子園、阪急の宝塚、京阪の寝屋川、大阪鉄道の何とかいうグラウンド等立派な野球場を持つ是等の鉄道会社が各会社専属のグラウンドにて、毎年春秋二期にリーグ戦を決行する、そうして優勝旗の競争をする、斯くすることによって各電鉄会社は相当の乗客収入と入場料と得るのであるから、野球団の経営費を支出し得て、或は余剰があるかもしれない。」
 
という構想を持っていたそうです。凄いですね~。第二次世界大戦後のプロ野球を予言していたようですね。
 
 しかし、昭和金融恐慌の影響によって最大のライバルだった大毎野球団が解散し、後に続く職業野球団も無い侭、1929年7月31日を以て宝塚運動協会も解散。その5年後の1934年に大日本東京野球倶楽部が設立され、宝塚運動協会の母体だった阪急も1936年に大阪阪急野球協会を設立したということです。
 

 東京には芝浦のほか、須崎や上井草にも球場が存在したそうですが、2013年12月1日付東洋経済オンラインは、阪急ブレーブスが本拠地を置いた球場の街、阪急西宮北口を採り上げていました。

 灘循環電気軌道を買収した阪急の前身箕面有馬電気軌道は阪神との競争に勝ち抜くため、阪神よりも駅数を3分の1に減らして神戸・大阪間の高速移動を実施する一方で新たに西宝線を開業させ、1922年に開業した甲東園駅を中心として住宅開発を進めたとのこと。小林一三は更に駅直結の野球場を大阪阪急野球協会の本拠地とすることにし、1937年に西宮球場を開設したということです。

 

 ところが、小林一三は東京宝塚劇場を中心に日比谷を演劇の街として開発することを企図し、東京に軸足を移動。その後の戦局の悪化に伴い、西宮の本格的な開発は戦後に持ち越されたのだとか。

 

 それにしても、思い出すのは山田▶山口のエースの継投と抑えの今井雄太郎投手、日本シリーズの足立光宏投手の雄姿。嘗てのファンが待ちに待った《今津線ダービー》が漸く実現したとき、既に西宮球場も阪急ブレーブスも存在しませんでした・・・・・・。


 この上宝塚の存続も危うくなるようであれば、泉下の小林一三氏はどう思っているのか、化けて出るのではないかと気になります。