お彼岸の中日。2時間程残業して戻ったので、普段家を出る時刻迄ぐっすり寝て仕舞い、お風呂を済ませて録画して置いた《新日本風土記 縄文の旅》を観ました。
東京から週末ごとに通って縄文人の生活を体験する家族が居るかと思えば、定年後に移住して来た家族も居ます。全国各地で発見される遺跡を中心にさまざまな体験会などのイベントが開催される一方で、少子高齢化が進んで営農する人が居なくなったため、遺跡の発掘と保存が進んだという皮肉な現実も在りました。
13,000年続いたと言われる縄文時代を歴史に遺した縄文人が、特定の祖先を崇拝する人々と最初に出逢ったときはどんな状況だったのか
お互いの姿は見えたけれども交流は無かったのか、いきなり暴力的な交流に巻き込まれたのか
低地に定着し始めた人々が田を耕し、村を囲み、祖先を異にする村々が諍いを始めるのを丘の上から見ていただけならまだしも、川を下って貝を漁りに行けなくなったり、山の林を管理しているところに畑を開墾しようと登って来た人々と衝突したりしたのか。
いずれにしても、13,000年に比べればごく短い数十年の単位で縄文人と新しく来た人々は混じり合い、祖先崇拝とアニミズムも混じり合って行ったのでしょうが、異なる地域の異なる自然に対する感謝の気持ちを地域の特産物を通じて感じ取っていた《寛容な》ネットワークは変節し一旦細くなった上で、村々や国々の戦いを通じて領土国家として再編して行くことになったのでしょう。
縄文人の文化が基底に在るお蔭で現在日本列島に住むわたしたちは、神社として整理されたさまざまなカミガミの存在を等しく受容していますが、領土国家再編の過程で特定の祖先神が新たな契約の履行を強要していればわたしたちの国の在り方も違っていたかも知れません。
いち早く領土国家を作り上げた戦国七雄の国々を統一した漢の圧倒的な影響力が周辺に及ぶ中で、もしかすると日本列島に住む人々もそれに対抗するために特定の祖先神との契約を守る選民思想を持っていたのかも知れませんし、あのとき物部守屋が蘇我入鹿に勝っていたら、神道は特定の祖先との契約を履行するための全く別の宗教だったかも知れません。
しかし、そうはならなかったお蔭で、日本列島は仏教を国家宗教とする一方で、氏ごとに異なるさまざまな信仰が地域に遺ることになりました。
現在の日本人の多くは「自分は無宗教、でも、この国は多神教」と考えているようですが、それもこれも13,000年に及ぶ分厚い縄文時代が在ればこそで在って、強力な征服王朝が先住民を制圧する一方で物部守屋・蘇我入鹿・藤原不比等などの豪族が入れ代り立ち代り新たな王朝を起ち上げていたとしたら、多神教の日本は無かった可能性も決して否定出来ないでしょう。
それにしても、番組の中で語られる地域の伝承を聴いてもせいぜい檀家制度以降の江戸時代の頃のもの。地道な学術研究が続けられなかったら、わたしたちが縄文文化に思いを馳せることも恐らく無かったのでしょうね。