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 昨日の朝はあっと言う間に満員になったバスも火曜日は余裕が在り、途中の停留所から乗る人も少なかった所為か、ほんの少し早く着きました。中央線快速も若干空いていて途中で座れたので、神田迄座っていました。

 

 早朝からTDRに向う女子たちに囲まれ乍らいつものようにスマホでYahooビックリマークニュースに目を通していると、東洋経済オンラインが極めてローカルな記事を掲載していることに気が付きました。

 日本初の《請願駅》(但し、狭義)は、

 

「東小金井駅だったのです叫びビックリマーク

 

という内容で、地元に近い地域住民は昔から知っている話ですが、中央線人以外の都民にとって、

 

「東小金井って何処はてなマーク

「武蔵小金井と間違ってねはてなマーク

 

って言いたくなる話でも在りますよね。

 
 ヒガコの駅が出来たのは、オリンピック開催を控えた1964年。あ、夏に雨が降らなかった《東京砂漠》の年だ。三鷹〜立川間に戦前から在った4つの駅のうち、武蔵境駅と武蔵小金井駅の間が3.4kmも在ったので、地元住民が用地買収費や建設費を全額負担して駅開設を請願したことによって開業したのが東小金井駅でした。記事によると、
 
「この地域の地主だった宮崎金吉氏を中心に、住民による新駅設置請願運動が展開され、用地の買収費や駅舎の建築費はすべて地元住民が負担することで、武蔵境と武蔵小金井のちょうど中間地点に、東小金井駅が誕生したのだ」
 
ということです。
 
 先程《地元に近い地域住民は昔から知っている》と書きましたが、東小金井駅南口から東南東に伏見通り(調布保谷線)に向う富士見通りを暫く進んで行くと、尾久自動車学校の反対側《マロンホール》(東小金井駅開設記念会館)の入口に東小金井駅開設記念碑と宮崎さんの胸像が立っています。碑文を読むと東小金井駅開設の経緯が判るのですが、この経緯について記事は、
 
「記念碑によれば、この地は昔から鉄道が走る姿を見るだけで乗れなかったことから、以前から駅の誘致を進めてきたものの叶わなかった。しかし戦後の人口増加を受けて再び誘致運動を開始し、宮崎氏を会長として、新駅設置協力会を立ち上げた。」

「市議会での議決もなされ、地元選出で防衛庁長官や郵政大臣などを務めた国会議員、福田篤泰氏の助けもあって、当初は難色を示していた当時の国鉄を翻意させることに成功したそうで、記念碑には紆余曲折、感無量などの言葉が並んでいる。」

 

と記していました。因みに、マロンホールの名まえの由来は、南口の栗山公園にその名が残るこの辺りの字名《栗山》に因んだもの。記事は更に、

 

「この記念碑には、国鉄から新駅開設の条件の1つとして、貨物駅の併設が出されていたと書かれている。そのとおり東小金井駅には翌年、貨物駅も作られた。」

 

と綴っていました。北口に中島飛行機の工場が在った荻窪駅や、南口に青果市場の在った吉祥寺駅でも嘗ては貨物の積み下ろしが行われていたものですが、東小金井駅で取り扱われた日本初の貨物が在ったのだそうです。記事によると、

 

「戦後、急速に成長した自動車産業だったが、当時は東名高速道路すらない頃であり、工場で製造した自動車を確実に輸送する手段として鉄道が選ばれた。」

「当初は自動車メーカーが所有する私有貨車が用いられたが、積載可能な車種が限定されるうえに、帰路が空車になってしまい非効率だったことから、国鉄が汎用の車運車を開発して運用することになった。」

「まず試作車のク9000形2両が生まれ、試験に供されたあと、ク5000形として量産されたのだが、試験運用の場として選ばれたのが、東小金井駅と名古屋市の東海道本線笠寺駅だった。」

 

のだそうです。東小金井から出荷されたのは、現在のイオンモールむさし村山の場所に在ったプリンス自動車村山工場で生産された自動車だったそうですが、中島飛行機▶たま電気自動車▶プリンス自動車と続く企業と多摩地域の深い繋がりを感じさせる逸話だと思いました。

 

 記事は最後に《進化する東小金井駅》と題して、中央線高架化以降、nonowaやののみちヒガコが整備された現在の東小金井駅を紹介していますが、中央線の高架化工事が始まってからもう20年も経つのですね~。

 

 コメント欄には、嘗ての貨物駅を跨ぐ長い跨線橋の思い出も綴られていましたが、そうでした。プラットフォームの東端にしか橋上駅に続く階段が無く、冬の寒くて長い跨線橋を降りるとそれでもつくば観光だったか宝自動車だったかのタクシーが停まっていて呉れたものでした。

 Wikipedia《請願駅》の項目を確認すると、JR東日本管内では東小金井駅や越谷レイクタウン駅の名まえが並んでいましたが、

 

「あれ、横須賀線の西大井駅ははてなマーク

 

と疑問に思いました。改めてWikipedia《西大井駅》に目を通してみると、1975(昭和50)年に

 

「国鉄が品川区に、地元負担による駅建設案を提示。品川区議会が地元負担による駅建設等(新3条件)を可決。品川区と国鉄が覚書を締結」

 

という記述が在りましたが、1978(昭和53)年には

 

「駅建設費に品川区の公金投入を違法とする『新横須賀線西大井駅建設費支出禁止住民訴訟』提起」、

 

更に、1980(昭和55)年2月12日には「品川区議会が10月開業反対決議」、同6月10日には「住民訴訟で原告勝訴(品川区の公金支出差止)判決」と記載されていました。

 

 結局、1984(昭和59)年に第三セクター方式による駅舎建設が開始され、1986(昭和61)年に旅客駅として西大井駅が開業していました。

 

 請願駅を開設するに当っては地方公共団体が旧国鉄やJR各社に対して直接費用負担することに制約が在り、飽く迄地元住民等が主体でならなければならないことが判りました。