突発事項が頻発したお蔭で気が付けば1日に15,000歩を歩いた日も在った今週。先週吹き飛んだ夏休みを水曜日に無理矢理捻じ込み、9時近くなって自転車で神代植物公園に向うことにしました。多摩湖自転車道、井の頭通りを通って武蔵境から調布保谷線(新武蔵境通り)を南に下って行きました。
9時半の少し前に着いたので、開園迄暫く待ってから、牧野富太郎博士の特別展を開催していた植物会館に入ることにしました。
パネル展示がメインなのですが、日本の本草学と欧米の植物学との出逢いを一表にしたパネルが判り易く、最初から見入って仕舞いました。
江戸時代の本草学の書籍もパネルになっていましたが、小野蘭山(1729-1810)が著した《本草綱目啓蒙》の一節の《杜若》に関する説明が掲示されていました。
牧野博士は元の漢語の意味とその漢語に充てた日本での読み方との齟齬を嫌って、植物の和名はカタカナで表記することを推奨していましたが、本草綱目啓蒙の杜若の和名は第一に《ヤブメウガ》となっておりました。
IMEは《tojaku》と入力しても《杜若》には変換しませんが、《kakitubata》と入力すると《杜若》と表示します。しかし、本草綱目啓蒙によると《杜若》はヤブミョウガのことですので、これは明らかな誤りとなります。牧野博士は若年よりこれら本草学の書籍を読みこなしておられたのですね。
こちらは牧野博士が発刊し、矢田部教授が東京大学植物学教室の機関紙とした植物学雑誌。
更に、牧野博士が第4集迄発刊した大日本植物志の現物の展示も在りました。
牧野博士は晩年、《牧野植物混混録》という雑誌を刊行してご自分の時々の思いを綴っていらっしゃいましたが、その中で「上野公園にキケマンが自生していた」、「牛込見付の橋下にドクゼリが生えていた」と記し、約60年間で東京市内から絶滅した植物、逆に繁茂した外来植物についても記していました。ブログもSNSも存在しない時代でしたが、牧野博士はご自分の功績を積み重ねることよりもソーシャルネットワークのほうに価値を見出しておいでだったのですね。
混混録の記載はパネルにもなっていました。現在、道端で春の訪れを告げるヒメオドリコソウやオオイヌノフグリを牧野博士が初めて採取したのは、それぞれ都内の青山学院大学の近くと大森の道端だったそうですよ。
植物会館の窓側には牧野博士が命名した草本も展示して在りました。こちらは牧野博士が第5代東京府知事子爵大久保一翁の嫡子で植物学教室助教授だった大久保三郎とともに最初に命名したヤマトグサ。日本初の理学博士で本草学者の男爵伊藤圭介の嫡子伊藤篤太郎が命名したトガクシソウに次いで、日本人による命名としては2番目だそうです。そして・・・・・・、
・・・これがムジナモです。ドラマの中で植物学教室の面々が口々に話していた特徴が良く表れていました。黒ずんで見えるのは捕虫嚢でしょう。
その隣に在ったのはタヌキモ。こちらも食虫植物だそうですが、わたしはアクアリウムを趣味としたことが在りませんので、余り知りません。
こちらは多摩丘陵に自生しているというタマノカンアオイ。練馬区立牧野記念庭園でも栽培されていたことを記憶しています。
姿の類似している植物の区別がわたしは苦手なのですが、只でさえ似ているホトトギスとヤマホトトギスの中間形態を示しているのが、ヤマジノホトトギスなのだとか。余程勉強しないと説明されてもわたしには違いが判りません。
植物会館前の喫煙所で一休みし乍ら職場と連絡した後は、山野草園に脚を伸ばしました。

















