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 東京地方は7月22日(土)に空梅雨の侭で梅雨明けを迎え、7月23日(日)から大暑に入りました。今日は午前7時半から8時過ぎ迄の間に職員の出勤状況と配置を確認した後、職員の休職手続に必要な指定医師診断書を受け取りに北品川と西川口を相次いで訪れました。外気温は朝のうちから30℃を超え、午前11時半頃には35℃に迄上昇していました。

 

 昨日《管理トップ》画面を開いたところ、2年前の同じ日にアップロードした記事をリマインドして呉れていました。

 土曜日の《マイあさ》(NHK-R1)が《いきものいろいろ》のコーナーを飛ばして南九州地方に発生した線状降水帯による集中豪雨被害の報道しているのを聴き乍ら、6月にがんの手術を終えたばかりのそらわんわん と多摩湖自転車道右矢印千川上水右矢印うど橋右矢印玉川上水と長いお散歩をしていました。その日は東京でも雨で、そら宇宙人 も濡れそぼっていました。

 ところで。

 

 先日、堺市出身の六代目片岡愛之助さんがナビゲーターを努める番組を視聴しました。6月8日・15日に近畿地方で放送された《御堂筋線モダン建築でたどる大阪100年》という特集番組で、BSプレミアムで7月に再放送されたものです。

 亡父が最初に倒れたとき、1週間程大阪に滞在して病院に通ったものですが、その折に改めて市営地下鉄御堂筋線や市内を走る私鉄を利用する機会が在りました。京阪の車両が立派になり、カラーリングもお洒落になっていたことに特に驚きましたが、併せて、御堂筋線のプラットフォームの美しさも改めて感じました。

 

 その頃既に駅構内には駅空間リニューアルが広報されていましたが、今回の番組を観たところ、梅田駅は更に美しくなり、他の駅でも順次改良が進められているようでした。

 

 広いプラットフォームと宮殿型天井が御堂筋線梅田駅の最大の特徴と言って良いと思いますが、其処から地上に上がり、阪急百貨店うめだ本店から阪急の梅田駅に向う広々とした長いコンコースをムーヴィングウォークで移動して自動改札機を通過してエスカレータに乗ると、9本の乗り場が並ぶターミナルが目の前に広がるのも好きでした。予備校生の頃は、此処から毎朝早くに四条河原町行の特急に乗って四条大宮駅迄通ったものです。

 

 高校生の頃は毎日近鉄電車で通学しましたが、最寄りの上本町駅は地上の7つの乗り場が大阪線、地下の2つの乗り場が奈良線で、地上の乗り場はターミナルでした。この駅もまた好きな駅でしたが、当時の自動改札機は定期券のパウチや切符の裏側の磁気データを読み取るタイプで、現在のような非接触型の自動改札機では在りませんでした。

 

 阪急・阪神・京阪・近鉄各社や当時の大阪市営地下鉄に対して、当時の日本国有鉄道はなかなか自動改札機を導入しなかった上に、特に大阪環状線のプラットフォームには停止位置や乗車位置が明示されていなかったために整列乗車が出来ないという致命的欠陥が存在していましたから、

 

「大阪人は整列乗車が出来ない。」

 

という悪いイメージを定着させたのは、ひとえに日本国有鉄道がこの問題を問題と認識すること無く放置したからに他なりません。

 

 ところが。

 

 居を東京に移して大学に通うようになると、日本国有鉄道は元より、当時の帝都高速度交通営団や私鉄の施設のみすぼらしさに驚くことになりました。

 

 都内の鉄道施設をみすぼらしく感じたのは、利用していた路線が専ら西武新宿線と地下鉄東西線に限られていた事情も在るでしょうが、何よりも幻滅させられたのは、私鉄も営団も都営地下鉄も自動改札機を導入していなかったこと。特に混雑の酷かった地下鉄東西線では狭い改札口に入鋏待ちの利用者が溢れ返り、入構した車両を何度も見送る経験をしました。駅の天井は低く、プラットフォームも狭い。軌間も標準軌の京急と馬車軌間の京王帝都とこれらと相互乗り入れしている営団や都営の゙地下鉄路線を除いて概ね狭軌でした。

 

 西武新宿線と地下鉄東西線を利用することが多かったので、尚更みすぼらしい印象を植え付けられて仕舞ったのかも知れませんが、進む東京一極集中にインフラや都市構造が全く追い付いていないことは明白でした。

 

 あの頃から40年以上の歳月が経過し、都内を走る路線を運営する鉄道各社は輸送効率向上に向けて不断の努力をして来ましたし、3環状道路の整備や業務核都市への機能分散など都市構造も変化して来ました。未だに東京オリンピック1964の頃の混乱を1980年代に至っても引き摺っていたような東京の鉄道事情に関して、現在の40歳代以下の方々には想像も出来ないかも知れませんね。