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 いろいろなことを思っても都度書き留めないと忘れて仕舞う日々。
 今の家に住まって20年近く、阿佐谷に住まって15年、田無には8年住んでいました。翻って顧みれば東大阪の家で過ごしたのは僅か14年。子どもの頃なんてものは、儚く短いものですね。
 起きて来たこくらげ宇宙人夫人と入れ替るように自室に戻ってNHK-R1《音楽の泉》でエネスコのルーマニア狂詩曲を聴き乍らうとうとしていると、いつしか《ドナウ川のさざなみ》に変っていました。
 
 わたしは《ドナウ川のさざなみ》と《アムール川のさざなみ》を屡々間違えて口遊んで仕舞うのですが、展開部は《ドナウ川》のほうが華やかで、《アムール川》に比べると如何にもワルツらしいと感じていました。
 
 けれども、わたしが聴き馴染んで来た《アムール川》が赤軍合唱団などによる合唱曲にアレンジされたヴァージョンだったからかも知れません。Wikipedia《ドナウ川のさざなみ》の項目によると、作曲者ヨシフ・イヴァノヴィッチがこの曲を作ったのは1880(明治13)年。1889(明治22)年のパリ万博でワルトトイフェルによる編曲版が評判になったということです。
 
 一方、2021年7月19日に《論座》に掲載された記事によると、《アムール川》の作者マックス・キュスは1874(明治7)年に貧しいユダヤ人の子どもとしてウクライナのオデッサに生れ、音楽を勉強するために軍楽隊長となってウラジオストックに配属され、日露戦争にも従軍。同地でアムール湾を日々眺めるうちに作曲したのが《アムールの波》という曲。この曲がアムール川を描写したものと誤解され、作曲者の死後、現在の歌詞が付けられたということです。
 
 革命後は赤軍に所属したキュスは、紆余曲折の後に帰郷しますが、直後に第二次世界大戦が勃発し、オデッサを枢軸国ルーマニア軍が占領。このとき、一説では10万人にものぼるユダヤ人が殺される《オデッサの虐殺》という事件が発生し、キュスも1941-1942頃に殺されたそうです。

 清朝から奪った沿海州をアムール川が「昔から」守り続けて来たと歌う歌詞は、作曲者の悲劇的な生涯に照らし合せると如何にも皮肉に聞こえて仕方在りません。歌詞に釣られてこの曲を如何にもロシア的な愛国歌のように捉えるのは間違いだったことをこの記事で知りました。

 

 この日、自分のうんちの上で足を滑らせていたそらわんわん にシャンプーを施して新聞紙の上で乾燥させていたのですが、午後お散歩に行こうと思ってお庭に回ってみると、またしてもうんちを擦った跡が見付かりました。寝ていたそらわんわん をひっくり返してみると、果たして片方の腰の部分にべったりとうんちが付いていましたので、午前中に続いて2度目のシャンプー。完全には乾きませんでしたが、残りはそら号の上で乾かすことにしました。

 多摩湖自転車道を武蔵野徳洲会病院の前迄来ると、長い枝が頭上に張り出しています。眺め乍らそら号を押すと、クワの実が赤くなり始めているのが判りました。
 この日のお散歩はサミット迄。わたしがお買い物の間、大人しく待っていたそらわんわん でしたが、帰りにコンビニに立ち寄って支払いを済ませて出てくると、
 
「あれっはてなマーク そらわんわん の美味しいものは買って呉れなかったのはてなマークビックリマーク
 
と頻りにわたしの顔を見詰めていました。