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 偶々、寿がきやの話題をニュースサイトで見ました。
 
 東海地方では勿論有名なのでしょうが、関西では寿がきやの店舗に余り馴染みが無いので、寿がきやと聞いて思い浮かぶのは、専らインスタントラーメンだったような気がします。そう言えば・・・・・・
♪スープは寿がきや 味で持つ
 
というCMを覚えています。確認したところ、寿がきやって《日本で初めてラーメンのスープを粉末にした会社》だったんですね。だから「スープは寿がきや」だったんですね。
 
 あのCMを良く耳にしていたのは昭和40年代前半だったと思うのですが、一体いつ迄放送していたのでしょうかはてなマーク
 昭和40年代で思い出したのですが、先日放送されたラジオ深夜便3時台《にっぽんの歌 こころの歌》《学生/学園ソング・アラカルト》で、坂上二郎さん《学校の先生》(1974年)が流れて来ました。
 
 二郎さんが中学校の先生に扮して貧しい家の女子学生や不良だった男子学生の想い出を語る科白が入る歌。「今はこうして働いている。」という科白でエピソードを締め括るのですが、公立学校だけでなく、私立学校であっても、昔は無理して子どもを通わせていた比較的貧しい家が在ったものです。
 
 多少の無理はしてでも、わたしたちの親の世代には「頑張れば食べていける」という信念が在りました。しかし、その一方で、終戦とともに日本国籍を喪失した在日の人々は必ずしもそうではありませんでした。
 
 そのことを記憶の底から思い起こさせて呉れたのが、先日録画して置いたNHK《アナザーストーリーズ》です。

 イトマン事件と聞けば、即座に《許永中》という名まえが想起されます。大阪駅に程近い中津に生れて、やんちゃ乍らも勉強は良く出来たと言われる許永中氏。しかし、大学時代に柔道と麻雀に明け暮れた許永中氏は大学を卒業しても当時の在日が一般企業には就職出来ないと知って次第に裏社会との接点で仕事をするようになって行ったようです。

 

 番組を観ていると、高校で許永中氏の同級生だったという女性が若い頃の許永中氏の思い出を語る場面が出て来ました。同級生ですからこの方も高齢になっていらっしゃいましたが、聞き覚えの在る声にテロップを凝視してみれば、何とラジオDJの桜井一枝さんでしたびっくりビックリマーク

 

 桜井さんがアシスタントをしていた番組が沢山ありましたが、記憶に残っているのはABC(朝日放送)の《ヤングリクエスト》とOBC(ラジオ大阪)のわっしょいスペシャル・ハイ本番ビックリマーク曜バチョンですね。それから、わたしが小学生の頃、毎週金曜日午後4時に関テレが放送していた《4時だぜビックリマーク飛び出せ!!わいわいワイド》でもアシスタントを務めていらっしゃいました(司会は関テレの桑原正平ちゃんビックリマーク)。

 

 わたしが大阪を離れてからもう40年になりますので、今でもパーソナリティとしてご活躍中とは知らずにいましたが、画面で拝見して少し懐かしくなりました。

 

 以前、《自伝大木金太郎 伝説のパッチギ王》(太刀川正樹著、講談社、2006年)を通じて戦後の日韓関係や裏社会とプロレス業界との繋がりなどに少し触れたことが在りましたが、戦前戦後に内地に渡った一世の人々よりも、内地で生れ育った二世の人々のほうが周りの日本人と自分を比べてより一層強く差別を感じたことでしょう。許永中氏もそうだったのかも知れません。

 

 それにしても、安宅産業事件や平和相互銀行事件の際は辣腕を振るった旧住友銀行の磯田一郎会長がイトマン事件の一端を担って引責辞任することになったのは皮肉と言うか何と言うか。当時のさまざまな経済事件について、もっと知りたくなりました。

 この日、《カレーほうとう》を作ってみました。
 スーパーをうろうろしているときにカレーが食べたくなりつつ、かぼちゃを目にした途端、ほうとうも食べたくなったので、一緒にして仕舞うことにしました。
 
 火鍋用の仕切り鍋の半分に炒めたタマネギ、調理済み野菜のカレーセット、炒めた牛筋と脛肉を入れて煮込み、もう半分にはほうとうを入れて煮込みました。