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 昨夕。

 通勤快速と知らず国分寺迄乗り過ごして仕舞いました。仕方なく階段を上って隣のホームに降りてみると、更に向いのホームは西武鉄道。暫くこの辺りに足を運んでいなかったので、ふらりと国分寺線に乗ってみたくなりました。
 
 中央線各駅のスタンドに新しい《中央線が好きだ》が並んでいたので手に取って捲ってみると、武蔵五日市が最寄りのしみず農園さんの《のらぼう菜》を紹介していました。

  元々採油用のセイヨウアブラナを食用にしたものと聞いていましたが、記事によると江戸時代後期にジャワから伝えられたのだそうです。我が家ののらぼう菜が一向に大きくならないのを憂えていたのですが、しみず農園さんでは8月に種を播くとのことびっくり(そうだったのかビックリマーク) 暑い時季に大きく育てて冬を越させないといけなかったんですね(激しく反省)。やり直しですプンプンビックリマーク

 

 話は変って。岩波文庫の《原文万葉集》を漸く手に入れたので、寝る前に少し頁を捲るようになりました。思い立ったところから何首か読んでいるのですが、昨夜捲ったのは巻14の東歌。元々直截的な表現が特徴的な万葉集ですが、更に直截的な上にモダンとも言える感情表現も豊かで飽きません。万葉仮名で記された当時の方言の響きも美しく感じます。

 

 しかし、不図不思議に思えたのはどの歌も押し並べて歌型の整った短歌として詠まれていること。記紀歌謡や後代の今様の如くメロディーに乗せて歌われた歌であれば57577である必要はありません。とすると、これらの歌の数々は手紙として《読まれる》ために書かれたか、思いを《詠む》ために書かれたのではないかと考えました。防人歌などと聞けば名も無き農民の歌と思って仕舞いますが、実際の書き手や詠み手はその地方の身分の高い人々だったのかもしれませんね。

 

 これらの歌が初めから後々編まれることを想定して作られたとは思いませんが、当時の東国まで広く和歌の歌型が普及していたことには驚かされます。かなり時代が下ってから南西諸島に移住した沖縄の人々が8886という歌型の琉歌を作られたのとは対照的に思ったので、《東歌 琉歌》と検索してみたところ、幾つかの文献が出て来ました。そのうちの1つをダウンロードしてみると、何と言語学者伊波普猷(いは・ふゆう、1876-1947)の《万葉語と琉球語》という論文でした。今度はこれを暫く読んでみたいと思っています。