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 朝早く外に出てみると半月に暈傘 久々に雨かも知れないと思ったものの、出掛ける前にはすっかりそのことを忘れて洗濯物をベランダに干して来て仕舞いましたひゃ~・・・ビックリマーク お昼休みに職場の外に出てみると、案の定、路面が少し濡れていました汗
 
 この日、職場に届いていた国土交通省のメルマガがこんな↓本日のつぶやき》を書いていました。
 

海上国道の続きです。

豊予海峡を挟んで九州と四国を一般国道197号が走っています。

高知県高知市を起点に、途中、愛媛県の佐田岬半島を通って三崎港から海を

渡り、大分市の佐賀関港から大分市の中心部に至ります。

佐多岬半島では尾根道を走っていて、この区間を佐田岬メロディーラインと

呼んでいます。ドライブに人気だとか。

豊予海峡は、三崎港と佐賀関港間に国道九四フェリーの航路があります。

フェリーの上から豊予海峡を行き交う大小の船が楽しめることでしょう。

国道197号は、いろいろと楽しめそうなルートです。

 

 前回、ブログに四国の話題を書いたばかりでしたので、何となくシンクロニシティを感じました。
 
 観音寺市在住の天体掃索家・藤川繁久さんを紹介した前回の記事の中で、高松市から観音寺市迄予讃線で行くと
 
 「気が遠くなる程遠く感じる・・・」

 

 と書きましたが、Wikipediaの《四国中央市》の項目にある《四国中央市を出発地とする周辺都市への距離・所要時間》という表を見たところ、四国中央市から高松市迄は一般国道で2時間1分、高速道路で1時間11分、鉄道で57分と記載されていました。

 

 「え~はてなマーク そんなに近かったっけはてなマーク

 

 と疑問に思って、Googleマップで高松駅から伊予三島駅迄の所要時間を調べてみたところ、特急で1時間4分、快速と各駅停車を乗り継いで1時間31分と出て来ました。特急は2時間に1本しかなさそうですが、電車を乗り継いでも思った程遠くはないようです。

 

 しかし、子どもの頃、車窓の外に広がる流下式塩田を眺め乍らすっかり退屈していたわたしには、随分遠く感じられました(矢印今はもう塩田なんか無くなって仕舞ったのでしょうが・・・)。尤も、東京に住んでいると電車が次から次へと来るので時刻表を見ることは滅多にありませんが、偶に地方に行くと電車がなかなか来ないので苛々することがあります。この待ち時間も含めると、実際はもっと掛るかも知れません。

 

 観音寺市や雲辺寺山に触れた序でにWikipediaの《讃岐山脈》の項目にも目を通してみました。すると、最初に概要で地勢の簡単な説明があり、次に主な山を紹介していました。しかし、次も歴史の中で最初に紹介していたのは《借耕牛》(かりこうし)・・・・・・

 

 「かりこうしはてなマーク

 

 以下、延々と借耕牛に関する説明、《経緯》、《実情》、《影響・副次的効果》、《借耕牛をモチーフとした作品》と続き、讃岐山脈の歴史の大半が借耕牛で占められていました目ビックリマーク 明治以降の記述は3行しかありませんびっくり

 

 水田が広がり牧草地の少ない讃岐平野では田起し・代掻きに欠かせない牛を飼えない農家が沢山いたそうです。そこで隣国の阿波から牛を借りる取り纏めをする農家が現れ、この仲介業者や牛の貸主を《かりこさん》と呼んだのだそうです。そして、借耕牛は讃岐平野の田起しに間に合うように冬の間に出発し、雪深く険しい山道を讃岐に向って進んだのだそうです。

 

 また、借耕牛の世話をするために一緒に山を越えて来た貸主の娘も《かりこさん》と呼ばれたとの記述もあり、《かりこさん》はなるべく早く米や海産物を牛に積んで雪が降る前に帰らなければならないために、「迅速な作業を心がけたことより《阿波の娘は働き者》として派遣先の農家に気に入られた事情がある」とのこと。そうだったのか・・・・・・

 

 《阿波の娘は働き者》とか《讃岐男に阿波女》という諺というか言い伝えはわたしも耳にしたことがあります。しかし、阿波から嫁を迎えるという両国の交流が借耕牛を通して行われていたことは今迄全く知りませんでした。いやあ、民俗学ですね~

 

 讃岐山脈の南側(阿波側)は吉野川に向って急激に落ち込んでいて水田に出来る平坦な場所が少ないので、借耕牛が持ち帰る米は貴重な食糧になっており、トラクターが普及する昭和30年代迄続いたのだとか。

 

 そう言えば、わたしの父方の祖母も徳島県三好郡は山城谷の出身でしたが、折角曼陀峠を越えたのにどうしてもっと平たい所へ嫁がなかったのでしょうかはてなマーク 祖母はわたしが幼稚園に入る頃、1965年か66年に亡くなった筈ですが、座棺に座らせて野辺送りをしました。叔父と父が棺桶に棒を渡して担いで担いで行ったように記憶しています。