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 前回まで3回に亘って田園都市株式会社や同社を引き継いだ目黒蒲田電鉄(後の東急)によるまちづくりを見て来ました。田園都市株式会社が企画した3つの田園都市のうち大岡山は東工大キャンパスに転用されましたが、多摩川台は現在も田園調布として良好な住環境を維持。残る洗足田園都市は洗足駅を中心に目黒区・品川区・大田区に跨って建設されたため次第に統一を欠くようになりましたが、小山七丁目の街並みに建設当時の面影を残しています。

 

 鉄道敷設と宅地開発を同時に進め、商業・娯楽・教育施設を誘致して鉄道や施設を利用する《顧客を創造》する仕組みを小林一三に学んだ五島慶太の手法は、戦後の多摩田園都市群の建設にも遺憾なく発揮されました。ところが、その東横線など東急のイメージが此処に来て急落していると10月9日付文春オンラインが報じていました。ビックリマーク

 

 「渋谷ストリーム」開業も 東急線は「鉄道相互乗り入れ」でダメになった】文春オンライン10月9日

http://bunshun.jp/articles/-/9205

 

 郊外人口の増加によって池袋や渋谷などターミナル駅のキャパシティが限界を迎えたため、ターミナル間を連携して乗客の分散を図って来た東急。しかし、相互乗入先で発生した事故により遅延が常態化。更に相互乗入によって渋谷がターミナルでなくなったため、買物客が伊勢丹に流れるようになったというのです。記事の記者は「東京の電車はなんであんなに乗り入れ好きなんやろな。うちは絶対地下鉄にはつなげまへん。だって梅田でお客さん降ろさな、百貨店がもうかりまへんやろ」という鉄道会社の役員の言葉を思い出して記事を締め括っていました。

 

7 阪急百貨店の独立と清水雅の登場

 

 五島が東横百貨店を開業したのは1934(昭和9)年。同じ頃、電力の鬼と呼ばれ、九州鉄道(現在の西鉄)を経営していた松永安左ヱ門が岩田屋の中牟田喜兵衛にターミナルデパートの開業を持ち掛けます。しかし、九鉄福岡駅のある天神は当時まだ発展途上。二の足を踏む中牟田に松永は小林を紹介。経営ノウハウの伝授や社員研修を阪急百貨店が引き受けた上で1936(昭和11)年に岩田屋百貨店が開業します。開業式には小林も来店し、東横・阪急・岩田屋が連携してターミナルデパートを発展させようと述べており、阪急百貨店を全国展開する意図は無かったようです。

 

この頃小林が力を入れていたのが映画演劇などの興業界への進出。1934年に竣工した東京宝塚劇場を皮切りに、経営不振に陥っていた有楽座・日劇・帝劇を次々買収。それまでの歓楽街浅草に対抗して有楽町・日比谷をアミューズメントシティに変えて行きました。また、1937年には東宝映画を設立してコンテンツ制作も開始します。

 

 数々の事業に加えて近衛内閣の商工大臣や幣原内閣の国務大臣も務めた小林でしたが、これが災いして戦後はGHQによる公職追放に。また、財閥解体の対象になる可能性のあった阪急電鉄も先手を打って事業部門を独立させることになり、1947(昭和22)年に株式会社阪急百貨店が誕生。このとき社長に就任したのが、小林と同じ慶應出身で側近だった清水雅(しみずまさし)でした。

 

 1951年に追放解除となった小林はその6年後に84歳で亡くなり、清水は後を継いで東宝社長に就任、中興の祖と呼ばれました。小林は戦前の1935年から清水ら2人を随行して1年に亘る欧米視察旅行を敢行。この視察の間、小林は阪急東宝グループの事業展開を、清水は阪急百貨店などのグループ企業の経営を考えていたのかも知れません。東宝を引き継いだ年に清水はこんな発言をしています。

 

 僕の見るところでは、東宝というところは映画会社というよりは不動産会社の性格が濃いね。あそこの建物、ここの土地というふうに、気をつけて見て回ると、きっと何か落ちている。それを拾うだけでも会社の2つや3つはすぐできるように思う。

 

 この発言を裏付けるように1964年には帝劇をオフィスとの複合ビルに建替え、出光興産本社や出光美術館を誘致。その他にも映画館などを経営していた土地に数々のビルを建設し、不動産事業を阪急東宝グループの主力事業にして行きます。

 

8 阪急百貨店の東京進出

 

 都市開発やアミューズメントシティ開発など面的展開を常に考えていた小林と事業の安定的経営を指向していた清水の違いは阪急百貨店の東京進出にも表れたようです。生活者が生活を楽しみ回遊するための場の創造を指向していた小林は有楽町・日比谷地区への進出を望んでいたのでしょう。

 

ところが、占領期の旧帝都のことです。日本が再独立するまで、GHQが置かれた第一生命館をはじめめぼしい不動産は連合軍に接収されていました。清水は東京進出を急ぎましたが、小林の承諾が得られません。

 

そんな折、小林や清水と同じ慶應閥で戦後鐘淵紡績を引き継いだ武藤絲治(むとういとじ)が大井町駅前のビルの購入を要請したのは1953年のこと。武藤は清水だけでなく、小林とも話し合いを重ねて承諾を得、遂に同年11月、阪急百貨店東京大井店が開業します。敗戦から10年以上経過していましたが、空襲によって灰燼に帰した城南地区の復興はほど遠く、阪急百貨店が購入したビルも戦時中の迷彩色が施された侭だったそうです。

 

街が復興してお客様が来てこその百貨店。《街の賑わい》を考えた清水の脳裏をよぎったのは1年前に講演を依頼された福岡で目にした博多どんたくだったとか。1946年5月に博多復興祭として復活した博多どんたく。翌年には市・商工会議所・商店会・市民の手で主催され、1949年には憲法記念日とその翌日に行われるようになりました。街じゅうが盛り上がる様子を思い出した清水は

 

「大井町でどんたくをやろう」

 

と提案。昨年で64回を数えた大井どんたくも、当初は阪急百貨店が主宰し、東宝の俳優や女優を呼んで大いに盛り上げたということです。

 

その後も清水は東京都心への進出を画策しましたが、先述のとおり小林の承諾はなかなか得られません。しかし、このときも経済界の大物から接収解除となるビルの話が持ちかけられました。

 

話を持ちかけたのは東芝の社長だった石橋泰三。但し、借りられたのは地上1階から地下3階まで。これでは百貨店には手狭です。東芝の電球のブランド名(マツダランプ)からマツダビルと呼ばれていたこのビルの1階に専門店を出店させるべく清水が声を掛けたのが、大阪の阪急百貨店に出店していた《ファミリア》でした。

 

清水とファミリアの出会いは2016年度下半期の朝の連続ドラマ《べっぴんさん》(NHK)に描かれていたので繰り返しませんが、創業者の一人坂野惇子(ばんのあつこ)の夫でレナウンの阪急担当をしていた坂野通夫が、大学の先輩で阪急百貨店の課長をしていた鳥居正一郎から「ファミリアと言う店を知っているかはてなマーク」と尋ねられ、「それ、うちの家内たちがやっている店ですよビックリマーク」と答えたのが抑々の始まりだったとか。通夫が訳を訊くと、神戸を歩いていたとき清水夫妻の目に止り、ファミリアの商品を扱いたいと考えていたそうです。(つづく)