三國志の英雄の中では劉備が一番面白い、とは以前にも書いた事がある。曹操は何故魏の武帝と成れたか、優秀で頭の良い男だからだ。勿論、頭が良いだけでは人生の成功は望めないが、曹操はそれだけの男ではない。


孫權も、劉備に比べれば條件が良い。赤壁や夷陵の戰で自らでしやばらず部下に總指揮を採らせた處などは面白いが、赤壁の時はそんなつもりは無かつたのではないか。


周瑜は三萬程度の水軍を率ゐてゐただけである。誰もこれで曹操の数十萬の兵に勝てるとは想はないだらう。あれは、孫權が兵隊を掻き集めるまでの時間稼ぎの心算(つもり)だつたのではないか。


周瑜が獨力で曹操の軍を追返した後、孫權は大軍で何度も合肥の城を攻めて失敗してゐる。この時に孫權は、自分の總司令官としての能力(無能さ)を理解したのではないだらうか。


劉備は曹操どころか他の英雄に較べてもそれほど有能には見えない。部下も荊州の火事場泥棒で膨張するまでは優秀な人材に囲まれてゐた訣ではない。少しは有能なのもゐたが、大半は簡雍のやうな能く分らない手合ひである。


それでも生殘るだけでなく帝位にまで就けたのは何故なのだらう。諸葛亮も軍事面では有能とは謂へない部下である。屬の制壓は龐統の貢獻が大きく、漢中の制壓は法正の功が大である。諸葛亮が増やした領土は荊州の本の一部だけである。


そんな劉備を際立たせる特徴は、先づ執着心の薄さである。やばくなれば妻子も部下も平氣で捨てて逃げる。曹操が袁紹と対決してゐた頃、劉備は汝南で曹操の後方を攪亂してゐた。


そこへ曹操が劉備討伐のため親征して來た、との報告が這入つた。劉備は信じられなかつた。袁紹といふ正面の敵を無視して曹操が出張つて來るなどとは。


そこで偵察に出かけた劉備は、本當に曹操が自ら出向いて來た事を知る。そこからが劉備らしい。部下や妻子に聯絡もせず、その場ですぐ單騎逃走するのである。


關羽が曹操に降伏する事件はかうして起きた。僕にはその後で關羽が劉備が生きてゐると知つて劉備の元に戻つた事が不思議なくらゐである。關羽は捨てられたのであり、曹操は關羽を厚遇してゐた。


劉備はかうした事を繰返して生延びた。だがこれでは、生延びられはしても群雄には成れない。事實四十代までは、うだつの上がらない傭兵隊長として流轉してゐただけである。


かうした劉備にも、變な美點がある。執着心が薄い爲さもしくも生臭くもないのだ。劉表の處にゐる時も後繼者問題に介入したりはせず新野で髀肉を嘆じてゐただけである。まるで野心が無いかのやうだ。


劉表が死んだ後も荊州をすぐ奪ふやうな事はせずに去つてゐる。曹操がそこまで來てゐるのだから痩せ我慢も相當なものである。結局赤壁の火事場泥棒で、荊州南郡の一部を數年後に手に入れる事になる。


益州で初めて劉璋と會見した時も、劉璋を暗殺してしまへといふ部下の進言を無視した。殺してしまへばすぐに益州は手に這入つたらうが、黄權などの優秀な人材は最後まで徹底抗戦したのではないか。


政敵を暗殺するなんてのは小物のやる事である。徳川家康は自分の處へ逃げ込み簡單に殺せた石田三成さへ保護してゐる。天下を盗む者は三日天下で終るのが關の山だ。


劉璋を殺さずに益州に居座つた劉備は、劉璋に要請された張魯征伐を始める訣でもなく數年を無爲に過ごす。一體何しに來たのだ、と劉璋ばかりか劉備の部下たちも想つたらう。


結局、曹操が來さうなので助けてといふ孫權の要請により劉備が歸國しようとした時に劉璋との間で摩擦が起きる。厚顏にも劉備は、劉璋に兵と食料の援助を要請するのだ。


中華民國の時代に李宗吾といふ人が『厚黒學』といふ本を書いて英雄を論じたが、そのモデルになつたのが曹操と劉備である。曹操の腹黒さと劉備の厚顔さが英雄の條件だといふ訣だ。


厚顔さは執着心の無さとともに、劉備の持つ不思議な特徴である。かつては曹操に厚遇されてゐたにも拘らず、曹操のもとを離れるとすぐに汝南で敵對行動を始めたりする。


この人には恩を返すといふ概念が無いのかも知れない。不思議な厚かましさを持つくせに、益州に出張るまでは他人の國を横領しようとした事が無い。變な人である。


現在に至るも僕にとつて劉備は不思議な無能者で、それは老莊思想によれば有能すぎて無能に見えるのかも知れない。單なる馬鹿で無慾の人でない事は確かである。