「日本は神の國である」といつてマスゴミに袋叩きにされた首相がゐた。正確には「神々の國」と言ふべきだ。切支丹とも想へない此の首相が想ひ描いた「神」とは、どのやうなものだつたのだらう。


或るユダヤ教のラヴイが面白い事を書いてゐた。正義を重んずる宗教は一神教となり、美を重んずる宗教は多神教となる、と。


このラヴイにはきつと、日本人の宗教觀が念頭にあつたに違ひない。僕には日本人の価値観は、今も昔も美醜と曲直しかないやうに想へる。


江戸時代の庶民には「粹(いき)」と「野暮」といふ価値観があつたが、これも突詰めれば「美醜」だらう。もつと正確に言ふと、「醜」ではなく「穢れ」である。


僕が教育勅語に批判的なのも、あれを本来の日本人の道徳とは想はないからである。「忠孝」なんて言つても、儒教の盛んな江戸時代でさへ親が死んで三年の喪に服する者など殆どゐなかつた。


信長が殺された時も、諸將たちは秀吉につくか光秀につくかで結構迷つてゐる。切支丹の武將は、宣教師たちから秀吉につけと説得された。日本人には無い「忠」の意識がバテレンにはあつたのである。


「返忠」といふ言葉を御存知だらうか。「かへりちゆう」と訓(よ)む。現在の主君を裏切つて昔の主君に寝返る事だ。これが日本人の「忠」の概念なのである。


支那にも歐羅巴にもこんな都合の良い言葉は無い。日本人が駄目だ、と言つてゐるわけではなくて、さういふ文化なのだと言つてゐるのだ。日本人には「忠孝」など附燒刃の道徳なのである。


日本人は自分の信念と価値観に本づいて美しく眞つ直ぐに生きれば良い。それは他人にとつて美しくないかも知れないが、多神教とはさういふ文化ではないのか。