「論理的」とは、「材料がたしかである」「経験知(生活知・学校知で得た知識・技能)がたしかである」「根拠がたしかである」「道筋がたしかである」「道筋から生まれる結論がたしかである」という5つの状態が成立していることでした。

 

 今回は、このうちの「筋道がたしかである」とはどういう状態なのかについて考えていきます。

 

 

 

 

 端的に言ってしまえば、「たしかな筋道」とは、論旨の展開において文や主張のまとまりが一貫しており、各文や主張が有機的に構成されている状態のこととなります。これを、飛躍がない状態であり矛盾がない状態だと言い換えることもできます。

 

 では、飛躍がないとはどのような状態なのか、矛盾がないとはどのような状態なのでしょうか。これも上図内で示していますが、改めて書き出せば次のようになります。

 

飛躍がない

  • 文章の主張に必要となる文が必ずある状態
  • 文章の主張に関係のない(不必要な)文がない状態

 

矛盾がない

  • 前に言った内容を否定しないと成り立たないような内容が存在しない状態

 

 これらの条件を満たした状態で、「根拠」と「結論」をつなぐ「道筋」(論旨の展開)がつくられているときに、その道筋を「たしかな道筋」と呼ぶことにします。

 

 実はさらに疑問がわきます。それは、飛躍がない状態をつくるにはどうすればよいのか、矛盾がない状態をつくるにはどうすればよいのか、という疑問です。

 

 飛躍も矛盾もないのがよい道筋と言われても、ではそれをどうやって実現するのかまで考えないことには、実際には「たしかな道筋」をつくることができません。

 

 私自身は、「たしかな道筋」こそが論理的な思考・判断・表現の核だと考えており、そしてこの「たしかな道筋」をつくるのが最も大変な作業だと考えています。

 

 「材料」は出どころを明確にする努力をしさえすれば比較的容易にそれが「たしかな材料」なのかどうかの判断がつきます。

 

 「経験知」についても、それが「たしかな経験知」なのかどうかの判断がつきやすくなっています。「学校知」であればそれが専門的・学問的なものなのかどうかのたしかめをおこなうことで、また「生活知」であればその知識・技能を発信している者以外の他者がそれをどこまで納得するかで、そのたしかさを判断できるからです。

 

 ところが「道筋のたしかさ」は一朝一夕には判断できません。話し手・書き手は、文や主張の一貫性を担保するために各文や主張を有機的にどのように構成させるのかを考えて表現し、一方聞き手・読み手は自分に今備わっている「有機的な構成を聞く・読む力」でその表現を理解しようとします。

 

 つまり「たしかな道筋」は、発信者の文章構成力とそれを具現化する表現力、および受信者の文章構成力とそれに支えられた実際の理解力・解釈力、これらの力が発信者と受信者の間で作用し合わないことには、そこで用いられている道筋がたしかなのかどうかについて判断を下せないという特徴を持っているのです。

 

 「たしかな道筋」を支える肝は「文章構成力」です。この力については、後日のブログでその詳細を明らかにしていきます。