三木清の学界評価は1990代に一転した。

それまでは、戦争に抵抗しつづけた左翼知識人との見方であったが『支那事変の世界的意義』との論文が注目されたからである。結果、体制派イデオローグと目されてしまうのである。

しかし、果たして内容はそこまで「侵略的」であったのであろうか。

さにあらず、東亜統一の重要性を認めつつ、そのイニシアチブを日中いずれかが取るかは流動的とし、日本文化を中国に押し付けることは好ましくないと釘を指す。そして日中両国の改革を求めたのであり、決して侵略的ではない。只、昭和研究会にも携わり、体制側の見解であるのは確かなようで、左派からは失望を受けたのであろう。

又『文藝』(昭和16年12月)で高坂正顕との対談で日中混血を推進し、新たな東亜民族を産み出すべく論じた。これには高坂氏も、日中双方これまで培ってきた、歴史的文化的伝統を尊重すべき、と対峙した。


更に戦争の見方については、名古屋新聞コラム『一朝一夕』(昭和16年10月)で、秀逸な軍人評論は傾聴に値し「個々のニュースに徒らに心を奪はれることなく、戦争を全体の立場から正しくみることを知つてゐるといふことは、高度國防に協力するために極めて大切なことである」

と論じたが、正に至言である。

三木氏は、単純浅薄な戦争反対論者ではなかった。