●南さつま市坊津町秋目 【地図】

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 タイトルにひかれて、『鑑真幻影 薩摩坊津・遣唐使船・肥後鹿瀬津』(中村明蔵氏 南方新社)を目にするなり手に取った。とりわけ「幻影」ということばにひっかかったのだ。
 帰宅後すぐに仕事場にこもり読みはじめたのだが、そこに書かれていたことは衝撃以外の何ものでもなかった。もとより歴史の専門家ではない。知らないことだって山ほどある。しかし、ここまで見事に思いこんでいたとは…。
 くだんの本は、結論からいうと、坊津は遣唐使船の発着港でも、寄港地でもなかった。鑑真は、秋目浦をめざしていたのではなく、たまたましけに遭い漂着したのだろう、と。さらに、坊津が繁栄するのは中世以降で、それも密輸や倭寇の本拠地だったという。「史書・記録の類に遣唐使船が坊津に寄港した事実は見あたらない(中略)その証となる資料がないから困惑せざるを得ない」という。出てくるのはたった1度、『大唐和上東征伝』の鑑真の漂着の事情だけだそうだ。
 ええっ、ほんとうなんですかぁ! 私のこころの叫びだ。読んでるこっちは大混乱だ。早速坊津町の教育委員会にたずねてみた。
 「坊津が遣唐使の発着港、寄港地だった記録はありません。」電話口に出た男性は言った。「坊津が歴史的な資料に登場するのは、中世以降ですね」。じゃあ、いろんなところに紹介されている、遣唐使船云々っていうのは…。「町では観光用に遣唐使船に似せたグラスボートを運航してるんですが、その宣伝などをみて勘違いされているのでは」。えっ、だって鑑真記念館のパンフレットにも、町のホームページにも、そう書かれていますけど…。「古い資料を参考にしてますからね、誤りもあると思います。考古学的にきちんと解明されてきたのは最近なんですよ」。そうですか…仕方ないですね。「はあ?」。
 電話の相手は、私の「仕方ない」の意味がわからなかったようだ。坊津に対してずっといだいてきた淡い恋ごころのような郷愁、ワイパーで一気にかき消されたような気がしたのだ。しかし、それが事実なら、どうしようもない。
 「それから、鑑真の上陸ですけど」電話の相手はことばを続けた。「ちょっと寄ったって感じです。秋目から六日間で太宰府まで行ってますからね」。
 なるほどほんとに「幻影」だ。だが、鑑真が秋目の地を踏んだのは事実だし、薩摩国阿多郡秋妻目浦が港だったこともまちがいないと私は思った。(つづく)
 
【写真】 寄港と漂着じゃ、ずいぶんとちがうな。秋目浦をながめる
【撮影場所】 鑑真記念館前庭
【国道226号】 起点南さつま市~終点鹿児島市 総延長157.2km
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