譫妄なき狂気、とはつまるところ一般的にいえばサイコパスということになるんだけども



このサイコパスっていうのも線引きがとても難しいものだと思う。



結局人によっては 「人を容赦なく殺したりするならサイコパス」 とか言う人もいるだろうし、



その他いろいろ自分の中で曖昧に線引きしながらあれやこれやといっているが大半なのだと思う。



それもそのはず、普通はサイコパスの説明をいくら読んだところで



しっかりとその言葉の意味を表面だけではなく身をもって理解できるのは、ソイツ自身だけだと思っている。



最近グルなんちゃらとかいう掲示板のサイコパスの掲示板とやらに参加してみたのだけども、



なにやらわけのわからんサイコパステストとやらをやっているだけだし、そんなにお前たちはキチガイになりたいのかねぇ?とくだらん失笑を頂いただけで何の面白味もなかったのだけども。



サイコパステスト、というのも実際のところ全くナンセンスであり、アメリカの有名な心理学者が作ったサイコパス診断とか噂は出回っているけどもほぼ間違いなくガセだと思われる。



論理的に考えて、いかに猟奇的な考えをしているかを計っているテストのようなもので、



猟奇殺人の素質は計れてもサイコパスとはほとんど関係ないことが質問の内容、意図からしてうかがえる。



こんなものを鵜呑みにするのは大バカ野郎くらいなので皆さん気をつけるように( °д°)



結局は行動や考えというのは個人の嗜好に左右されやすいものであって、○○だからこう なんて単純にはいかないものだ。




サイコパスと似たような部類で反社会性人格障害というのもあるみたいなのだけども、



サイコパスそのものの線引きというより、この上記の2つの線引きが曖昧なのだ。



この上記2つについての説明は面倒なので、読んでいる方がそれを知っている前提で話させてもらうのだけども、



僕が一番分けやすい分類の仕方っていうのが



人間のいうところの (道徳やらの良心的なもの)なるものを通常の生活で十分学習しそれを理解しているにも関わらず、



それでも尚 「私にはこんなもの必要ないな」 と、あるいはそれすらも考えず無意識の中で冷静に、合理的に捨て去ったモノを、僕は僕の中でキチガイと呼んでいる。(僕も含めなのだけども)



これは一般的な尺度とは関係がなく、一般的な尺度を考察した上で僕が決めた尺度だ。



つまり、普通に育ち、普通にを知り、けども 



要らない
  



こんなヤツが僕の思っている上記の2つの前者のほうだ。



なんぼ殺した量や残虐性で図ったとしても、



よく聞く、育児環境が極端に悪かったとかそういうことなら僕は後者になると思う。



例えば、野生の中で 動物 として人間が育ち、



言葉も知らない知恵もない、ただ腹が減れば獲物を狩りしてきたようなやつでも



同じ人間なのだから」 と言えるだろうか。



僕は言えない。もはやそいつは人間ですらないかもしれない。



そんなやつが街に出れば、女が1人歩いているところを見つければメスの臭いを感じとりレイプするかもしれない。



夜道に1人、狩りやすそうな少年がいれば殺して食糧にするかもしれない。



これはあまりに極端な例え方だけども、



もしも幼いころにまともに育てられなかったのならば、それも似たようなものだ。



下手に知識(心まがいなもの)を得た野生の動物のようなものだと僕は思っている。



そんなやつが、ちゃんと僕らがいうところの  なるものを持っているかどうかといえば、ほぼ確実に同じ尺度でいう  は持っていないだろう。



つまり、僕が言いたいのはそういうことだ。



僕は "普通" という言葉は嫌いなのだけどもあえて使わせてもらうと、



二度目になるけども、

普通に育ち、普通に心なるものを会得し、それでも尚、冷静に 必要ない と合理的にソレを行えるものが僕のいうキチガイだ。



それはくだらない人間関係の中での摩擦などのものによって心が擦り減り、




もう心なんかないほうがいい。まっぴらだぁーーー!!




なんてものじゃない。



これはちょっと表現しにくいんだけども、どちらかといえば



普通に笑顔な家族に囲まれ、いい友達を持ち、一緒に祭りにいったり花火をしたりし、



帰ってきた夜には余韻に浸りながらベッドに寝転び、その瞬間素朴にこう思う




楽しいっちゃ楽しいけどさ、アイツラって本当に必要かなぁ



物心がついたころには漠然と 「周りと何かが違う」 と感じ、

周りの大人たちのいう大層な言葉や友達がいう綺麗な言葉さえも



「意味はわかるんだけど、"何か"がわからない」



自分の感じ方と周りの人々の感じ方、考え方の違い、それ以前に "何かが違う" と最初は感じるんだけども、後々になって確信へと変わっていく。



普通に育ってきたはずなのに、普通に周りと同じことを教えられてきたはずなのに、



それでも、自分には何かが欠けている、と思わされざるを得ないのだ。



僕はポジティブなので、それを  "進化" と捉えているけども。




いやはや、毎度のことながらなのですけどもそろそろ雑にこの辺で〆させてもらおうと思います。



なんだかんだいって、実は日記1つ書くのに毎回一時間ほどかかっているのが現実なので、まぁ神様も許してくれるでしょう。




それではまた。






よく、自分のことを"善人"と自称する人間を信用するな、ときく。



まぁ確かに、自分を"善人"だと思っている人間にろくなやつがいた経験はないし、確かにそうなのだろう。



けどもその逆、自分は"悪"だという人間も、僕は信用できない。



そういう人間には大まかに2パターン存在しており、



ただ単に自分が良い人間だと思うこと自体が偽善者のように感じ、それに反発するかのように自分を"悪"だと自称しているか、




あるいは、本当に自分を冷静にしっかりと"悪"に近い素質を持っていると自覚している者だ。



どちらにしても、前者は偽善者になりたくないが故にとった行動がすでに"偽善者"じみているし、



後者は自分の性質を理解している上で、尚もそれを改善する気配もなく自らの性質を肯定しているから厄介だ。



そして後者のほうは、心理学でいうところの  譫妄なき狂気  といえる。



この譫妄なき狂気とは、簡単にいってしまえば、



一般人からみればソイツは狂っているんだけども、当人は別に狂っているわけでもなんでもなく、



冷静かつ理知的であり、しっかりと脳で思考された結果がソレなのだ。



ソレがわかりやすい例ってのが、著名な殺人犯が放った言葉だ。



この自称狂っている僕がそれらの殺人犯のセリフを、狂気・または哲学的観点から面白いと思った言葉を抜粋しようと思う。




「俺を死刑で殺すのなら、お前たちも俺と同類だな」  ジョン・デリスキー


「殺されるなんて人生で一度しか経験できない貴重な体験ですよ?あなたの娘さんは運がいい」 ケニー・エヌ・レイスター


「理由なんてないわ。ただ退屈だっただけ。月曜日は嫌いなのよ」 ブレンダ・スペンサー


「人間のつくった房ですから、人間がやぶれぬはずがありませんよ」 白鳥由栄


「俺には死刑こそが最もふさわしい。俺や俺みたいなヤツから社会を守るには、それが当たり前の事だ」 テッド・バンディ



う~ん、面白いですね。


多種多様なので色もカラフルにしてみました。


僕が一番、譫妄なき狂気を表すにふさわしいと思う言葉はやはり最後に書いたテッド・バンディの言葉でしょうか。



もしかしたら普通の人が見たら、今のせている殺人犯の他の言葉や、その他の殺人犯の方の言葉のほうがコエーとかヤベーとか思ったりするかもしれません。



しかし僕が"面白い"と感じるのはやはりコレですね。



社会のルール、世論、自己の性質、それらを全てしっかりと"認識"していると分からされる言葉ですね。



というよりも、もう少しだらだらと書く予定ではあったのですが



実は現在午前4時47分。



こんなわけのわからんくだらん日記をつけていい時間ではないのであります。



そんなわけでpart系日記第一弾はこの辺で雑に〆させてもらいます。



それではまた。



時々 「他人は信用できない」 という言葉を耳にする。

そして大抵そういう人は 「信じれるのは自分だけ」 という言葉も口にする。



だけども、僕らがいうところの"自分"というのは本当に信じるに値するものだろうか?と僕は思う



仕事、恋愛、友情、etc..



この十数年間、生きてきた中でここまでコロコロと何かが変わるモノを、

僕は自分以上のモノを他人に見出すことはできない。



生きていく中で僕らは変わる。間違いなく変わる。変化する。



もしかすると、本当にもしかするとだけども、

例えば"永遠の愛"だとか"永遠の友情"だとかずっと変わらないものが存在するとしても、



僕自身だけは絶え間なく変化していくだろう。そう、断言する。



つまるところ、"今日の自分の考え"というものは"明日の自分"とは対なり

敵対すべき考えを持っている自分である可能性は、否めない。



正義の反対はまた何かの正義、

そして、愛の反対というのも、無関心ではなくまた別の"愛"であると僕は思っている。



つまりこの僕の考えに沿っていうと、"信じることができている今日の自分"とはまさしく"信じることができない明日の自分"であり



ともなると、到底信じる価値、というか信用することなんてこれっぽっちもできやしないと僕は思う。



だから僕は実際に自分を全く信用していない。



「よし、今回の仕事はせめて1年以上続けよう」 

なんて思った日には、



「あ、今1年以上続けようっておもっちまった。この結果は100%かわる。間違いなくかわる」

だなんて思い返したりしている。

まぁ、僕の僕自身に対するジンクスみたいなものなのだけれど。



だけども、それは恋愛や友情にしても同じことがいえるだろう。



「ずっと好き」 なんていってるカップルが長続きしてるところなんて見たことが無いし、

(もしかしたらいるのかもしれないが)


「我等友情永久不滅」なんて中学校の寄せ書きに書きあった数か月後には、ほとんど赤の他人のようになっているなんていうのは実際のところはザラのように思える。



皆さんも、自らの行動を思い返してみて、どうだろう?



僕は、言葉や感情なんてものはちゃんちゃらお笑いのようなものでしかないとさえ感じている。



僕が重視しているのは行動ただ1つであり、どんなに大層な言葉も行動の前では無意味だと思うのだ。



世の中には星の数ほどの"名言"なんてものが存在しているわけだけども、



なんてふわふわと漂った存在なんだろうと感じざるを得ない。



結局僕らは、いくら偉大な名言を耳にタコができるほど聞きつくしたところで



それは"ただの言葉"を聞いているにすぎない。



「この言葉を聞いて私は変わった!!」 なんていうけども、



はてさて、一体その変わったというのはどの程度のもので、プラスに変わったのかマイナスに変わったのかよくわからないところでもある。



そんな 「この言葉を聞いて私は変わった!!」 なんていったところで、



その5日後あたりにはその名言の頭文字の1つや2つ残ってればいいところだろう。



実際のところを追及していけば 「私は変わった」 というよりも 「あぁーそうだなあ」 と思ったくらいがいいとこで、



「それを機に私の脳の構造は変貌し、何もかもを行動することにおいてその重点が変わり、私が私ではなくなった!!!」



というなら話は別だが。



案外人っていうのは気付かないうちに勝手に変わっているだろうし、

変わろうとしたところで、

それは「変わろうとした」というだけであって



今その瞬間 「あっ、変わった!!」とわかるわけでもない。



結局のところ僕が思うのは、自分というものはそこまで信用できるものではない。

と僕が勝手に思っている。ということだ。



雑な締めかたで申し訳ない。



まぁそんなことを言ったところで実際のところは、



「自分というものはそこまで信用できるものではない」



と考えている僕の言葉も、所詮はこの僕 "自分"というやつが考えたことなのでまったく信用できない。



さて、このような状況を一体どう打破すればいいんだろう?