僕は、感情的っ"ぽい"ことを書くときは、あたかも僕にしっかりとした感情が備わっているかのように書いてしまう癖がある。



だけども、実際のところ僕はそれを書いているときに感情的な気分になっているかというとそうではなく、



逆に冷静にそういう風に見せるための文章を考えていたように思える。



僕には、"普通"の人たちが"当たり前"のように持ちうる"思いやり"が、恐らく備わっていない。



そのことは、恐らく僕の親兄弟、恋人、そして親交の深いごく一部の友人のみが知っている。



僕は前の記事で、もしも親や友人や恋人が自殺しようとしたときに、



その苦しみを考えたら月並みな言葉なんてものはかけられないと、言った。



しかし、実のところ、僕にとってはそんなことはどうでもいいことだった。



僕にとって、家族や友人や恋人は 「居たら助かる」 という存在ではあっても 「いなくてはいけない」 という存在ではない。



だから、死のうとすれば助けない。



ただそれだけのことだった。



誰かを救おうとするということは、何らかの代償を犠牲にしなければならない、ということだ。



すなわち、それは僕の何かを犠牲にしなければならないということだ。



残念ながら僕には、何かを犠牲にしてまで人を助けるというような思考にいきつくほどの思いやりは、なかった。



それと同じように、



僕は、僕が生きていても死んでいてもどちらでもいいと考えている。



確かに、生きていれば楽しいことはたくさんある。



確かにあるんだけども、 だからどうした? という感じなのだ。僕にとっては。



僕には、その楽しみを得るために苦労をしなければならないという事実を受け入れることができなかった。



楽しみを得るために苦労をする、という価値が僕には感じられなかったのだ。



だから僕は、この人生の中で、今までで3回ほど自殺未遂を犯した。



だが僕は今、生きている。



別に死にたくなかったわけじゃないし、生きたかったわけでもない。



ただ単に僕は、その場その場で楽なほうを選んで生きているだけなのだ。



死のうとすれば誰かが助けてくれる。金銭的にもだ。



しかしずっと働かずに食うだけの人生を送っていれば、周りから急かされもするだろう。



そうなれば僕は、僕が生きるために働くという価値を感じないので、死を選ぼうとする。



そのときはきっと、別に本当に死んでしまってもどっちでもいいのだ。俺にとっては。



しかしまたそのときに誰かが助けてくれようとすれば、僕は迷いなくその手を掴むだろう。

相手の懐も一緒に。



要は、楽であれば僕はなんでもよかった。



働かずに生きれるなら死なないし、

働いて苦労して生きることになるなら死んだほうがマシだ。



結局のところ僕の根本は 「いかに楽に生きるか(死ぬか)」 に尽きているようなきもする。



生きるなら苦労せずに、死ぬなら痛みのない練炭で眠るように。



どちらも俺にとっては"楽"なのだ。



そこに 「頑張って生きる」 だとか 「人生を楽しむ」 だとかそんな気持ちは1ミリも混ざっていない。



結局、僕にとっての 「生きてようが死のうがどっちでもいい」 というのは

それが他人だろうが身内だろうが自分だろうが、差別なしに僕の中に根付いている。



僕は物事を考察していく過程で、絶対にやらないことがある。



それは著名な哲学者が発した言葉であっても、絶対に最初は賛同しないこと。



そして、誰かを崇拝しないこと。



それはなぜか?



例えそれが真理に思えるような言葉であっても、それなら尚のこと、更に粗さがしをして追及する。



ひたすら追求する。



そして本当にそれが真理のように思えたなら、それは"僕の中で"真理として留めておく。



誰かを崇拝しない、というのは誰かを崇拝する、ということは必然的にその人に似た考えに寄っていくことになり



そして最終的にはまるで自己暗示のように自分の可能性を狭めていくように思えるからだ。



いや、もしもその範囲の中で収まってしまったのなら、結局はそれが自分の"可能性"だったということに過ぎないかもしれないが。



以上のことから、僕は誰かに共感することはあっても、絶対に最高の哲学者だとか、そんな風に思ったりはしない。



そもそも、最高だとかいう言葉を使う時点でもはや僕からしてみれば思考停止と同然のように感じてしまう。



最高という上限の位置づけを終えてしまえば、

つまり、まるでそれが最上でこれ以上がないようで僕は嫌なのだ。



故に僕は、時々哲学を好む者から聞く「彼は最高の哲学者だ」とかいう言葉に ん…? と首を傾げずにはいられない。



そもそも何を持って最高とするのか?



最高とは言葉の通りてっぺんを指すものだし、正直なところ"考える人"はそんな言葉を使わないものだと僕は勝手に思っている。



"哲学をする者"ではなく"哲学を学ぶ者"なら何の疑問も抱きませんけども。



今言った"哲学をする者"と"哲学を学ぶ者"の間には決定的な違いがある。



前者は"哲学をする"のだ。

後者は"哲学を学ぶ"のだ。



もう一度言おう。前者はする、後者は学ぶ、だ。



この、すると学ぶの違い。



例えば、後者は既存の数学の問題を解く。

もちろん、1+1というのは1+1であって、その答えもある。というのが後者にとっては当たり前だ。



だが前者は違う。

1+1とは本当に1+1なのか?という一般の人々から見れば ??? となるような事を当然のように行ってしまう。



1+1とは何なのか?というと意味不明すぎて大げさに聞こえるかもしれないが、本当にそれと同じようなものだと思っている。



1+1とは、もしかしたら何か違うものなのかもしれない。

といったような、答えが全く見つからないような途方のない探求と追及をしているようなもの、だと僕は思っている。



元々、芽が咲いていたものをまた土に埋め、そして掘るときにはスコップでその芽をえぐりながら掘り返し、

芽がまた地面に出てきたときにはまったく変わり果てた姿かもしれないし、同じ姿かもしれない。



そんな意味があるのかないのかわからないような作業を延々と続ける。



だから時々僕は苦しくなる。



もう何も考えたくないと塞ぎこむことだってあるし、ある時にはぱっと考えが浮かんでそれを考えるのが楽しくてしょうがないときもある。



何か考えようとしても逆に何も浮かばないときもある。



そしてそうしていくことが僕にとって吉と出るか凶と出るか、最後には僕自身が導き出した答えに苦しめられるか、それともそうではないのか。



哲学をすることによってどのような最後を迎えるとしても、

やっぱり僕は哲学をどうしようもなく求めていて、そうすることを望んでいる。






僕は僕自身を、



家族にとって家族に値せず、そして恋人にとって恋人に値せず、友人にとって友人に値しないと自分を評価している。



僕は常に僕の中の正しさに従って考え、人の言葉を聴き、そして言葉をかけてきた。



その中には恐らく、"人間"じみた、一般的な人が持ちうる"優しさ"のようなものがなかったように思える。





二年前ほど、友好関係にあった友人がある日、鬱になった。



なぜかはよく知らない。



確かに仲は良かったほうだと思うのだが、プライベートなことはあまり話してこなかったような気も今になってはする。



わかっているのは、その頃にはよく死にたいと口にしていた。



僕は彼に言った。



「○○がいなくなるのは悲しい。でも死んで幸せになるなら、死ねばいい」



僕は、僕のその言葉には何の深い意味もなかったし、



素朴な、率直な俺の思いだったと思う。

そして今もきっと、同じ状況に遭えば同じ言葉をかけるだろう。



人はいつだって楽や幸せを追い求めるものだし、辛い目には遭いたくないと考えるのは当然のことだ。



もしも生きることにうんざりしたなら、そしてその結果死ぬことのほうが僕にとって"最善"の策のように感じられたなら僕は迷わず死を選ぶだろう。



それが最善の策なのかは、死んでみなければわからない。



だが辛くなることが目に見えている"生きる"という選択よりかは、まだ希望に満ちている選択のように感じられるのは当然のように思える。



だから僕は当然のように、あたかも他にかける言葉なんて何1つないように、確かに彼にそういった。



彼は僕の性格を、他の人間よりはずっとずっと理解していたようで、僕がそう答えるのをわかりきった顔で黙っていた。



きっと僕は、相手がその友人ではなく、例えば家族だとか恋人だとか。



そういう存在が相手であっても尚、恐らくまったく同じ言葉をかけるだろう。



冷静に考えて、確かに少し自分が冷たく感じられるような気もする。



だけども、自分の思ったことを伝えるのが僕なりの礼儀であり誠実さだとも思ったし、



何より、軽はずみに無責任な希望の言葉をかけるのは何よりも抵抗を感じた。



"優しい"人たちならきっとこういうだろう。



「きっといつか何かがある」

「生きていれば楽しいことがたくさんある」

「死んだら何もかも終わりだ」



そんな決まり文句のような月並みの言葉をかけてあげられたら、どんなに楽だろうか。



いつかっていつだ?何かってなんだ?

本当にその"いつか"は来るのか?本当に楽しいことが待っているのか?



僕はそんな月並みな言葉に、こんな卑屈な思いで返してしまうだろう。



これは果たして屁理屈だろうか?



そんなことはない。そんなことはないはずだ。



自分がこれから辛く苦しい目にあうかもしれない、いわば人生の分岐点で、



そんな保障のない言葉を簡単に信じることができるだろうか?



死ぬほど苦しんでいるその瞬間に、その"いつか"という守られたことのない口約束によく登場するフレーズごときを、どう信じれというのか?



もし、もし僕がその死ぬほど苦しんでいる当人だとしたら、



無理だ。とてもじゃないが信じられない。



相手にとっては励ましてくれているはずのその言葉が、"生"という拷問に苦しめられているであろう自分にとっては、自分を馬鹿にし、嘲笑い、"こういっていれば状況はとりあえず収まるだろう"という



安易な、とても安易な言葉のナイフとしか受け取ることができない。



これは僕が素直に優しさを受け止められていないということなんだろうか?

本当に?本当にそうだろうか?



もし。もしも自分が”死"を求めている人間だったら。



その"優しい"はずの人たちの言葉は、本当に優しく見えるだろうか?



いや、きっとこんな考えは不毛で、相対的だということはわかっている。



わかっているけども、もしも自分がその状況に陥った時、いや確実にいつかは大多数の人間が"死"という希望に惹かれるであろうその時、



そして、もしも月並みな言葉を吐いているその"優しい”人たちがその状況に陥った時、どう感じるのだろう?



そんなことを鬱々と考えて出た僕の答えは・・・とてもじゃないが、彼らを救えない。



救えるような言葉を吐くときは、僕が億万長者にでもなって彼、あるいは彼女らの生活を保障できるときか、全能の神にでもなれたときだろう。



"死"に近い者に無茶苦茶な希望の言葉をかけ、その結果彼が生き延び、そしてあろうことか苦しみぬくという結果にでもなれば・・・僕はそれを背負いきれないだろう。



それは僕が殺したも同然だ。



結局のところ僕自身も、僕がその"死"に関与するという事実を避けたいだけなのだろう。



安易に希望の言葉をかけるのは無責任だが、しかし言葉をかけないというのもある意味"逃げ"という選択を取ってしまっているのかもしれない。



だが僕は"逃げ"を否定しないし、ただ単に逃げるという選択肢を自ら避けている者たちからの"逃げ"だのなんだのという批判はナンセンスなものだと考えているし、別にどうということでもない。



それでも自分の中のモヤモヤを取り除くことができずにいる。



やはり最後は当人が決めることであり、僕等にできることというのは


「こういう選択肢もある。しかし決めるのは自分だ」


という、優しく、それでいて残酷な提示しかできないように思える。