最近、1日が短い。だから、一週間も短い。
一年なんて、あっという間だ。
ついこの間、「え、去年の紅白見たばっかりなのにもう!?」
と言いながら紅白を見たばっかりだと思ってたのに、もう三月だなんて。
ふとしたきっかけでブログをのぞいたら、
最後に更新した日からほぼ2年が経っていた。
ブログをやっていたことさえ忘れていたのに。
もう更新もしないから、消そうかなと思っていたのに、
久しぶりに読んだら、消せなくなってしまった。
いや、別に大したことを書いていないので、消したって構わないんだけど。
ここは自分の頭の一部だ、と思ってしまったのだ。
一番古いブログが、2008年。その前のあれこれはmixiに残っている。
こちらも、もう滅多に見ないのに、消せない。理由は同じ。
私の頭の一部だ、と思ってしまったからだ。
ブログやmixiを覗くと、もうすっかり忘れてしまった自分の感情がそこに置いたままになっている。
まるで、自分の感情の倉庫だ。正確に言えば、それは剥き出しの感情ではない。
他の人に読んでもらって構わないよう、
ちょっと包装紙で包んで、なんならリボンなんかつけちゃって。
そんな感じの感情である。
けれど、その包装をしたのは自分なので、
その下にある文字がうっすら見える。
今の時代を私たちは恐ろしいほどの情報量の中で生きている。
自分の考えていたことややっていたことがその情報に紛れて忘れてしまうくらいの。
人がブログやinstagram、twitterに何かをアップしたくなるのは、
自分の頭の容量では抱えきれない情報と感情を、
外付けHDDに避難させておくようなものなのかもしれない。
そうして避難させて、避難させたことも忘れてしまう。
忘れてしまったものになど、価値ないのかもしれない。
けれど、他の人には価値がないように見えるものこそ、
実は価値があるもののように思う。
と思ったのは、最近、ある地域の郷土資料を読んだせいかもしれない。
私にとって縁もゆかりもない土地の江戸時代の検地記録、
ある地域の人が大切にした木、拠り所にした神仏、うっすら怖い言い伝え。
それらは今の時代に直接利益をもたらす情報ではないかもしれない。
そこには私とは違う時代を生きた人の世界の広がりがある。
それは文字情報であり、記録ではあるが、
その時代を生きた人の記憶でもある。脳みその一部なのだ。
次の世代の人に、自分たちの子孫に、そしてまだ見ぬ人に、
どうしても伝えたいという思いがそこに立ち上る。
それが事実の羅列であっても、
その郷土史は書いた人たちの一部だと感じるのだ。
この2年間、ブログを書こうという気にならなかったのは、
ブログをカッコつけて書いてしまうようになっていて、
ここが頭の一部、という気持ちにならなくなってたからかもしれない。
そのことに気づいた今の気持ちを、ここに置いておこうと思う。
もしかしたら、急に「あ、やっぱりブログ消しちゃおう」
と思う日が急にくるかもしれないけれども。