学校生活 52−3     慶應義塾普通部   保護者会 7月 3回目 

 

それからもう一つ、自然学校や林間学校を通してもそうなのですが子供たちにも言いましたが家庭で子供たちが受けている事は家庭教育ですが主に個、

 

 個人の教育です。

 

 だから皆様のご家庭においては家族、ファミリーが基本、大事なのであって勿論わが子が大事であってまあ、利害関係で言えば周りが敵といっては言いすぎですが自分の家が個の場です。

 

 個が一番大切なのです。

 

 これが個人の家庭の教育ですが学校というのは何のためにあるのか、学校というのは個の教育に対して集団の教育が出来る唯一の場と私は理解しております。

 

 もしこれがなっかったら、あまりそういうことが重要でないのなら個の教育だけでOKですよね。

 

 個の教育だけでOKでしたらネットで勉強して誰の顔も見ないでEメールでレポート出して単位を習得して終わりですね。

 

 しかし、社会というのは人間と言うのは個である部分と集団に属しているという部分がなくてはなりません。

 

 この集団であるという部分を学べるのは唯一やはり集団で行動しているこの学校。

 

 これなんですね。

 

 だからこの学校の中では我々はどちらというと個を超えて集団で皆を扱っている。

 

 勿論、個別も大事なのですがどちらかというと集団で子供を扱っている。

 

 そうすると子供は家庭の中で個で頑張っているわけですから個では許された事が集団では許されないと言うことが出てきます。

 

 そこで色々な軋轢が出てくる。

 

 このような色々な軋轢から集中攻撃を受けて自分はどうしたらいいのかということを学んで行くのがこの集団の場だと私は信じております。

 

 そのようなことがありまして今回は2年生の林間学校にお邪魔したのですが、ちょっとお行儀が悪くて人の話を聞かない場面がありました。

 

 そこで「頼むよ」という話をしてきたのですが、面白いことにたまたまマイクが壊れてしまったのですね。

 

 全然話が出来なくて。肉声で話をしましたら段々静かになっていって、最後は非常によく聞いてくれました。

 

 まあ、こういうところを見ると普通部生はすばらしいなと思います。

 

 そこで最近ふと思うことは集団の中で言ったら聞いてくれると言うことは個の部分でしっかりしていないとなかなか難しい。

 

 これは個の躾が皆様方しっかりとなされているという裏返しです。

 

 お子様に対してですね。

 

 だから慶應義塾が成りたっているわけですね。

 

 この普通部は良い学校なのかとよく聞かれますが、学校が良い悪いはその中の生徒の質ですよね。

 

 もうこれは設備でもありません。

 

 少なくても中学校レベルの躾は教師の指導レベルでもないかもしれません。

 

 勿論、先端技術云々でもありません。

 

 コンピューターがあるから教室が綺麗だからこういう問題では全然ありません。

 

 やはりその集団がすばらしいかすばらしくないかだけです。

 

 つまりその集団を構成している一人ひとりの個人、これがすばらしいかどうか。

 

 こういうことですよね。

 

 それが慶應義塾普通部は水準を遥かに超えています。

 

 皆様はそれは実感されているのではないでしょうか。

 

 その為に我々はある意味で躾に対しては胡坐をかいて学問の教育が出来ているのです。

 

 これは非常にありがたいことです。

 

 こういう問題を家庭で時々お話をしていただきたい。

 

 お前は家庭でしっかりして、そして集団の中でまたやるんだよと。

 

 集団の中が上手く行くということは個がまず確立していないとだめなんだと。

 

 だから個が確立していない人が集団の中に入っての集団が上手く動くはずがないですよね。

 

 非常に当たり前な事なのですがこの当たり前なことが今の世の中は見えていなくなっている。

 

 よくあの「学校は悪い」という人がいます。

 

 しかし、学校という物理空間に良し悪しはありません。

 

 あるのはそれを構成している生徒と教師です。

 

 まずこのことを互いにご確認したいと思います。


 この間の林間学校で山を歩いている時にふと思い出しました。

 

 私が若いときには生徒がガーンと先に行ってしますのです。

 

 その後を追ってむきになって自分も早歩き。

 

 そうすると道の細い登りで突然スットプするのですね。

 

 そこで一息つく。

 

 すると、またワーッと行かれてします。

 

 また一生懸命に追っかける。

 

 頂上では疲労困憊。

 

 この時、ある先生とご一緒していたのですが、先生は「遠くに行く人は遅く歩いている人」つまり遠くに行かれる人は遅く歩く人という意味でしょうか。遅く歩いている人が遠くに行かれる。

 

 まさにその通りだなと思いました。


 数年前に岩菅山に登った時の事。すごく弱い子がいました。

 

 私も強くないのですよ。

 

 その子が前の日に池巡りハイキングで一緒だった時に、私は彼に歩き方を教えたのですね。

 

 もうすでに彼はハイキングでもバテテいました。君、見てごらん、あの先の連中、ぱーっと行っても、もうすぐ止まるよ。

 

 そんなんだったら同じ速度で少しずつ歩いて、皆が休んでいるときにも休まないで少しづつ歩いてごらん。

 

 絶対同じになるからねと話をしたのです。

 

 その子はその話を覚えていて次の日に岩菅山登山の時に

 

「先生の言われたこと納得しました。

 

 今日の登山も先生の後をついていきます。」

 

と言って私と一緒に歩き出しました。

 

 私も決して強いほうではないのですが今回もやはり同じことが起きました。

 

 飛ばしていった連中は細いところでピッと止まってしまう。

 

 これの繰り返し。

 

 しかし、我々は同じペースでゆっくりと歩いていきました。

 

 そして最後に気が付いたら頂上、登山の半分、つまり登りは終わっていたのです。

 

「先生のお陰で苦手な登山も出来ました」と言われた時には少し嬉しい気持ちになりました。

 

 この弛まずゆっくり歩く確実に歩く、牛歩のごとくなどと言われます。

 

 牛の歩みの様にゆっくり。

 

 これが普通部のスタンスです。

 

 そこを是非、皆さんご理解していただきたいと思います。

 

 私もそのような話をどこかでさせて頂きたいと思っていたのですが保護者会では担任に橋渡しをすることが主眼なのだと思っておりまして、今回は前にも申しましたようにある保護者のかたから「先生の教育に対するお考えをお話願いたい」というお手紙がありましたので今日は長くお話をさせていただきました。

 

 そんな感じで普通部という学校は動いております。

 

 以上、普通部のスタンス、私の考えるスタンスです。

 

 

52−4へ  続く

 

※ この話はあくまでも水先案内が普通部部長時代に語った話   です

 現在の慶應義塾普通部とは何ら一切の関係はありません