呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 319 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

47.沢水困

□卦辞(彖辞)
困、亨。貞。大人吉无咎。有言不信。
○困は亨(とお)る。貞(さだ)し。大人は吉。咎(とが)无(な)し。言ふ有れども信ぜられず。
 困は、上卦兌、下卦坎。自然に配当すれば、上卦兌は沢、下卦坎は水。上卦と下卦を入れ替えた水沢節の時は坎の水が兌の沢の上にある形なので、沢の水は溢れないし、乾涸らびたりしないが、困の形は坎の水が沢の下にある形なので、沢の水が溢れ出て、沢が乾(ひ)涸(から)らびてしまった形である。
 水が全て溢れ出て乾(ひ)涸(から)らびてしまった沢は、何も潤(うるお)すことができない。沢が乾(ひ)涸(から)らびてしまったので、沢の周りの草木は枯れ、沢はその役割を果たせないのである。
 見方を変えて、外卦の兌を少女、内卦の坎を険難だとすると、険難の上に無力な少女が居るので、困窮するしかないのである。
 それゆえ、この卦を困窮の困と名付けた。困の字は木が口に中にある。木は口に囲まれているので、幹も枝も共に伸びることができずに、困窮する・険難に遭遇すると云う意味である。
 内卦を観察すると、陽爻九二が初六と六三の二つの陰爻に蔽(おお)われている。外卦を観察すると、九四と九五の二つの陽爻が上六と六三の陰爻に蔽われている。また、外卦と内卦を合わせた全体の形を観察すると、陽卦である坎(陽爻が一つ)が陰卦である兌(陰爻が一つ)に蔽われている。
 それゆえ、彖伝に「困は、剛(ごう)揜(おお)はるる也」と言うのである。すなわち、陽剛が陰柔に蔽われている形であり、陽剛である君子が、陰柔である小人に制御されている形、陽剛である男子が、陰柔である女子に蔽われている形である。
 陽剛の性質が発揮しにくい時である。陰柔の性質が陽剛の性質を打ち消してしまい、陽剛の働きが封じ込められてしまう。陽剛の働きが封じ込められてしまえば困窮するしかない。険難の度合いが深い根源的理由である。
 草木が水を吸い上げられないように、運気が低下して何事にも困窮するようになる。これでは何事も結果を出せるはずもなく、行動を控えるようになる。このような状態は困難と言うしかなく、何事も成し遂げられる時ではないのだ。
 彖辞に「困は亨(とお)る」とあるのは、困の時に対処して、常に正しい道を歩み続ければ、やがては、困難を脱して、物事を成し遂げられるようになると云う意味である。

□彖伝
彖曰、困、剛揜也。險以説。困而不失其所亨、其唯君子乎。貞、大人吉、以剛中也。有言不信、尚口乃窮也。
○彖に曰く、困は、剛揜(おお)はるる也。險にして以て説(よろこ)ぶ。困(きゆう)すれども其の亨(とお)る所を失はざるは、其れ唯だ君子か。貞、大人は吉とは、剛中なるを以て也。言う有れども信ぜられずとは、口を尚(たつと)べば乃ち窮する也。
 困の時は、下が険しいが上は喜んでいる。どんなに困難な状況に陥っても、心の中では喜びを失わないのである。どんな困難でも絶望することなく希望を見出すことができる。どんなに追い詰められても、挫けることがない強い心を持っている。
 数(あま)多(た)の苦難に遭遇しても、剛健中正の徳を具えた人物(九五を指す)の正しさを歪めることはできない。自分の正しさを確立している人物は、幾多の心配事があっても、心の中の喜びを失うことはない。どんなに苦しい時でも絶望せずに、無限の希望を抱き続ける。それゆえ、困の時に対処するには、正しさを固く守る人間力が基盤となる。
 だが、人間、困窮しているときは、正しさを固く守り続けることができない。論語に「小人窮すれば斯(ここ)に濫(らん)す」とあるように、人の道に背く人も出てくるのである。
 困の時に対処するには、心と行いが常に正しくなければ、険阻艱難から脱出することはできない。心と行いが常に正しくなければ、次々に険阻艱難を招き寄せることになる。
 君子は天命を自覚しており、理念や大義に安住しているので、どんな状況に陥っても、その状況を楽しんで(心一つになって)対処することができる。
 身体は行き詰まっても、心の中に希望を抱いて、只管人の道を歩み続けていくのである。それゆえ「険にして以て説(よろこ)ぶ。困(きゆう)すれども其の亨(とお)る所を失はざるは、其れ唯(た)だ君子のみか」と言う。
 君子とは陽剛の性質を具えている人物(この卦においては、九五を中心とした陽爻)を指す。聖人が険阻艱難を乗り越えてどのように対処するかを知ることは、誠に有り難いことである。
 易経において少男とは「一五歳までの男子(艮)」である。少男は成長過程にあるから、筋骨はまだ堅固ではない。少男は能力や実力もまだ未発達である。
 少男が成長して一五歳から三十歳に至るまでを中男(坎)と云う。中男(坎)になれば、氣力が旺盛で筋骨も堅固となり、能力や実力も具わってくる。よく学び、よく働いて、人間としての基盤を確立するのである。
 坎の水は、山谷に湧き出た水が渓谷の岩石の間を縫うようにして小川となり、数々の険阻艱難を乗り越えて、遂には大海に至る。中男(坎)が世の中で成長していく過程も同じである。
 人間社会には様々な人間がいるので、自分の価値観を前面に出すことなく、慎んで相手と接することにより、お互い和合する。紆余曲折しながら、大海に至るように成長していく。時と事に適切に対処して行くには、忍耐力が求められる。
 仏教では人間社会のことを娑(しや)婆(ば)と云う。娑婆は忍土と訳す。人間社会を渡っていくには忍耐力が欠かせない。心を磨き、肝を練るのは、今は世に隠れていても、やがて、世に出て身を立てて、人の道を履み行うためである。
 ならば、敢えて苦難の道を選び、何度も艱難辛苦を乗り越え、経験を重ねて能力を身に付け、紆余曲折しながら、大海に至るように成長していくのである。
 今も昔も、身を立て功を成し遂げられるのは、自分に才能があったとしても、周りの人々が助けてくれるからである。自分一人で逆境を乗り越えたものと勘違いしてはならない。
 功を成し遂げられずに、失敗に終わったとしても、逆境に押し潰されて、気持ちが萎えてしまったら何にもならない。困難から逃れるために、不正を行ってはならないのである。困難に押し潰されそうになっても、人間性を喪失することなく、切磋琢磨して、気持ちを奮い立たせなければならないのだ。
 度重なる艱難辛苦は、自分を鍛え上げるために天が与えてくださった試練である。度重なる艱難辛苦を乗り越えてこそ君子である。昔から世の中で大きな事業を成し遂げる人物は、数多くの困難を乗り越えた人物である。
 周王朝の礎を築いた文王、周王朝の政治の基盤を築いた周公旦、周公旦を理想の政治家として政治のあるべき姿を示した思想家孔子は、いずれも数多くの困難を乗り越えた人物である。
 困の時においては、九二と九五が剛健にして中庸の徳を具えて、常に正しさを保ち続ける。幾多の艱難辛苦を乗り越えて、やがて大海に至るための計画を練り上げる。
 以上のようなことは、何があっても志を喪失したりしない人物、すなわち大人でなければ、できないことである。
 大人は時に中ることを知っており、天命に安住している。どんなに困窮することがあっても、天を怨むことなく、人を咎めることはない。常に正しさを貫いて、時が至るのを待っている。
 それゆえ「貞、大人は吉とは、剛中なるを以て也」と言うのである。小人にはできないことである。
 「大人は吉」の「吉」とは、些(さ)細(さい)な事、小さな事に惑わされず、苦楽は世の常であることを弁え、艱難辛苦は天が自分に与えた幸福の種であり、人物を磨くための学校であると心得て、喜んで艱難辛苦に対処すべきことを示している。
 険難(下卦坎)にして喜ぶ(上卦兌)卦徳を実践するのである。剛健の性質を維持するから吉を招き寄せる。吉は人に対して用いる言葉、亨は時に対して用いられる言葉である。
 彖辞に「大人は吉。咎无し」と言っている。逆に言うと「小人は凶。咎あり」ということになる。
 困の時は、どんな言い訳や憐れみの言葉を発しても何も解決しない。人が艱難辛苦に遭遇すれば、何とかその状態から逃れたいと強く思うものである。
 恥ずかしい思いを忍びながらも、その屈辱に耐え切れずに、耳を塞いで、頭を垂れて、人に憐れみを乞う者がある。だが、そんなことをしても、天はその人を助けてくれないのである。
 艱難辛苦の落とし穴に陥った人の言葉は誰も信じてくれない。以上のことを「言う有れども信ぜられず」と言うのである。
 人徳を磨くための努力を怠り、苦労した経験も少なく、本だけ読んで日頃は偉そうな理屈を唱えていても、不平不満しか言わないような人間は、誰からも信用されない。益々困窮する。このことを「口を尚(たつと)べば乃ち窮する也」と言うのである。
 上卦兌には口先巧みな侫人という意味がある。口先だけで艱難辛苦を逃れようとする人間は、誰にも信用されないのである。
 四大難卦の一つ水山蹇の時は、立ち止まって観察すれば艱難辛苦を乗り越えることができる。水天需の時は、時が至るのを待てば険阻艱難に陥らない。ところが、困の時は、三つの陽爻が陰爻に蔽われているので困窮の落とし穴に陥って脱出することができない。これが困の困たる所以である。
□大象伝
象曰、澤无水困。君子以致命遂志。
○象に曰く、澤に水无(な)きは困なり。君子以て命を致し志を遂(と)ぐ。
 「沢に水无(な)き」は、水沢節の「沢の上に水有り」と対応する言葉である。沢の上に水が有るのが正常な形である。沢の下に水が有るのは異常な形である。困は沢の水が溢れ出て沢が乾涸らびてしまった状態。困窮している状態を表している。
 または、互体離(二三四)の太陽が沢を照らし続けて、沢の水が蒸発してしまい、乾涸らびてしまった状態である。人が精根尽きて、神仏のご加護なく、憔悴している形である。
 それゆえ、この形を人に当て嵌めれば、困窮の至り、厄難の極みである。このような状態を乗り越えるためには、志を実現することが求められるが、それは困難を極めるので命を失うかもしれない。命を失う覚悟がなければ、この状態を乗り越えることはできないのである。
 その困難の度合いは、城壁が低く、お堀が浅く、食料の備蓄もなく、軍備も整っていないお城を一人で守るようなものである。外からの応援も期待できない。このように不利な状態でも、一人毅然としてお城を守る。その姿は雷電のように凜々しい。
 このような時は、一人お城を守るべく、やるべきことを行い、変化に応じて、粉骨砕身して、必死にお城を守ろうとしても、弓は折れて、矢は尽き、食べ物も途絶えて、倒れるしかない。只管(ひたすら)忠信の志を遂げて、役割を全うするだけである。
 古典にある「患難に素しては患難に行う」(中庸)、「君に事えて能く其の身を致す」(論語)、「身を殺して仁を成す。危うきを見て命を授く」(論語)と云うような対応が求められる。
 このように困窮する時に対処するには、利害の外に出て、見識に従うしかない。命をも捨てる覚悟で、心に信じることを貫き、天命に奉じるのである。
 それゆえ「君子以て命を致し志を遂ぐ」と言う。天命に奉じるとは、己の命を賭けて物事に対処することである。
 平生から事が起これば天命に奉じる覚悟のある人物でも、本当に困窮した場合に、天命に奉じることができる人物は少ない。時の機微を察知して、成功する確率など度外視して、人事を尽くして天命に奉じるのである。
 命を惜しむようなことがあってはならない。たとえ命を失ったとしても、君子として何ら恥じることなく、誇るべきである。天命は天から授かったものだから、天に委(ゆだ)ねるである。
 天命を全うすべく果敢に行動するのは、自分の志の強さにかかっている。君子が困窮した時には、天命に奉じることだけを考えるのである。志を遂げられないこともあれば、遂げられることもある。結果を畏れずに果敢に行動するのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初六。臀困于株木。入于幽谷。三歳不覿。
象曰、入于幽谷、幽不明也。
○初六。臀(とん)、株(ちゆ)木(ぼく)に困しむ。幽(ゆう)谷(こく)に入る。三歳、覿(み)ず。
○象に曰く、幽(ゆう)谷(こく)に入るとは、幽(くら)くして明らかならざる也。
 臀(とん)は脊骨の付け根、すなわちお尻である。株(ちゆ)木(ぼく)とは木の切り株である。初六は陰爻陽位の不中正で下卦坎の険難の最下に在る。
 人が木の切り株の上に坐っていたところ、お尻の皮が擦り剝けて痛くてたまらない状態。しかも、応爻である九四の陽爻陰位は不中正。九四は上六と六三の陰に蔽われて困窮している。
 このような状態でどうして初六を困窮から救うことができるだろうか。木の切り株が坐っている人を救うことができないのと同じである。それゆえ「臀(とん)、株(ちゆ)木(ぼく)に困しむ」と言うのである。
 初六は、坐っていても安心することができない。行動しようとしても前進することができない。自らの力では何もすることができない。卑しく暗くて困窮しているのである。
 初六を臀(とん)と称するのは、進み行く場合は趾(あし)と称するが、初六は進み行くことができずに、そこに居るだけだからである。
 上卦兌には「谷」「幽」と云う意味がある。下卦坎には「穴」「陥る」と云う性質がある。陰爻にも「穴」と云う意味がある。初六が困の時の始めに居て、下卦坎の険阻艱難に陥っているのは、まるで上卦兌の幽(ゆう)谷(こく)に入っていくような感じである。
 けれども、初六は陰柔の性質で才能がないから、自らその険阻艱難を脱出する力がなく、しかも不中正(位が正しくなく、中庸の徳を具えていない)だから、応爻である九四から助けてもらうこともできないのである。
 それゆえ「幽(ゆう)谷(こく)に入る。三歳、覿(み)ず」と言うのである。「覿(み)ず」とは、幽(ゆう)谷(こく)に対する言葉である。三年以上の長い期間、幽谷から出て行くことができない。日の当たる場所に立つことができないと云うことである。
 象伝に「幽(くら)くして明らかならざる也」とあるが、「幽(くら)くして」とは、心が蒙昧で暗いことを云い、「明らかならざる也」とは、時機(タイミング)を掴むことが苦手と云うことである。何度チャレンジしても困難から脱出することができないのは、心が蒙昧で暗く、時機(タイミング)を掴むことが苦手だからである。

九二。困于酒食。朱紱方來。利用亨祀。往凶。无咎。
象曰、困于酒食、中有慶也。
○九二。酒(しゆ)食(しよく)に困(くる)しむ。朱(しゆ)紱(ふつ)方(まさ)に來らんとす。用(もつ)て亨(きよう)祀(し)するに利し。往くは凶。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、酒食に困(くる)しむとは中にして慶(よろこび)有る也。
 「酒(しゆ)食(しよく)」の「酒」は楽しむこと、人の心を悦楽させること。「酒食」の「食」は養うこと、人間の身体を養うことである。
 「朱(しゆ)紱(ふつ)」は天子が身に付ける礼服であり、「紱(ふつ)」は膝(ひざ)を覆(おお)うものである。すなわち「朱(しゆ)紱(ふつ)」とは九五の天子を指している。
 九二は剛健な性質で中庸の徳を具えているが、下卦坎の主爻なので、険阻艱難の落とし穴に嵌まっており、上からは誰も助けてくれないので、その才能を発揮することはできない。
 落とし穴の底で困窮しており、その存在は王さまには全く知られることもない。それゆえ、民衆が毎日のように困窮するのを見ていても、救い出す手立てがないのである。
 このような自分の不甲斐なさに苦しんでいるのが九二であり、九二の心中を「酒食に困(くる)しむ」と言う。「酒食に困(くる)しむ」とは、日用品が不足するほど、毎日の生活に困窮していることである。
 小人が生活に困窮することを「困」と云い、君子が道に窮することもまた「困」と云うのである。
 君子たる者、道に窮したとしても、その立場に安んじて順い、例え生活に困窮するようなことになっても、心中動揺することなく、自分の困窮した状態を心配したりしないのである。只管(ひたすら)天下国家のことを慮って、険阻艱難に陥っている天下国家を救うことだけを考えるのである。
 困の三つの陽爻は全て君子だから、毎日の生活に困窮しているわけではない。人の道を履み行うことができないので窮しているのである。
 九二の君子は下に居て道に窮しているが、いつまでも窮しているわけではない。必ずや九五の王さまに任用される時が来て、共に険阻艱難に陥っている天下国家を救出するのである。
 困の時に中って、剛健の性質と中庸の徳を具えた九二が下に居て道に窮している。上には同じく剛健の性質と中庸の徳を具えた九五が九二を温かく見守っている。
 やがて時が至れば、九二はいよいよ忠臣としての力を蓄え、九五の王さまは忠臣九二を迎えに来て任用される。
 それゆえ「朱(しゆ)紱(ふつ)方(まさ)に來(きた)らんとす」と言う。九五の王さまに抜擢任用された九二は、剛健の性質と中庸の徳を発揮して、困窮している民衆を救済する。毎日の生活に困窮していた民衆は九二のお陰で、その状況からあっという間にに脱出するのである。
 九五の王さまに抜擢任用されても、九二に九五の王さまを尊崇する気持ちが弱ければ、困窮している民衆を救済することはできない。忠臣九二は九五の王さまを尊崇しており、九五の王さまは忠臣九二を信頼しているから、民衆を救済できるのである。
 九二と九五が一つになって神仏をお祀りする気持ちで天下国家にお仕えすれば、困窮している民衆を救済することができる。このことを「用(もつ)て亨(きよう)祀(し)するに利し」と言うのである。「亨(きよう)祀(し)」とは、下は上を尊崇し、上は下を信頼することである。
 「往くは凶」とは、まだ時が至らないのに功を上げることを焦って妄進すれば、凶運を招き寄せると云うことである。困の時は神仏のご加護を賜って災難を免れる時だから、妄りに動いてはならないのである。「往くは凶。咎(とが)无(な)し」とあるのは、妄動してはならないとはいえ、大義を掲げて行動したのであれば、咎められることはないと云うことである。
 忠臣九二を大臣の地位に在ると見ることもできる。大臣として、天下国家のため、民衆のために、役割を全うするのである。事の是非を論じて成敗を論じない。大義を掲げて天下国家に尽くすことができない者は、災難を避けることはできないのである。
 象伝に「中にして慶(よろこび)有る也」とある。九二は陥険の真っ只中で困窮しているが、やがては、九五の王さまと志を同じくして、志を実現することができる。剛健な性質と中庸の徳を発揮して、遂には喜びを得るに至るのである。

六三。困于石、據于蒺藜。入于其宮、不見其妻。凶。
象曰、據于蒺藜、乘剛也。入于其宮、不見其妻、不祥也。
○六三。石に困(くる)しみ、蒺(しつ)藜(れい)に據(よ)る。其(その)宮(きゆう)に入り、其(その)妻(つま)を見ず。凶。
○象に曰く、蒺(しつ)藜(れい)に據(よ)るとは、剛に乘る也。其(その)宮(きゆう)に入り、其(その)妻(つま)を見ずとは、不(ふ)祥(しよう)なる也。
 「石に困(くる)しみ」の石とは、堅くて重くて戦いを挑んでも勝てない存在の例えであり、九四を指している。「蒺(しつ)藜(れい)に據(よ)る」の「蒺(しつ)藜(れい)」とは、トゲがある草。近寄ってはならないと云うことである。すなわち、初六には近寄ってはならないのである。
 「其(その)宮(きゆう)に入り」の「其(その)宮(きゆう)」とは、六三の位のこと。「其(その)妻(つま)を見ず」の「妻」とは応じる位に居る上六のことである。
 困の時に処するに、陰柔の六三は過ぎたる地位に在り、中庸の徳を具えていない。内卦坎の極点に居て、応爻上六の助けもなく、九四と九二の陽爻に依存しており、才能も人徳もないのである。
 進み行こうとすれば、九四と九五の陽爻に阻まれる。巨大な岩石に塞がれているようである。
 退こうとすれば、九二の陽爻に阻まれる。近寄ってはならないトゲのある草である初六に助けを求めても、九二が邪魔するので動くことができない。上六に助けを求めても、九四と九五の陽爻に邪魔されて、上六を見ることすらできないのである。
 それゆえ、進退窮まり、どうすることもできない。小人が困難の中にあって自分で自分の首を絞めているようである。以上のことを「石に困(くる)しみ、蒺(しつ)藜(れい)に據(よ)る」と言うのである。
 応じる位に在る上六とは陰同士なので応じない。凶運に覆(おお)い塞(ふさ)がれているのである。例えれば、困難に耐えられず、自分の家に帰ってしばらく休もうと思っても、自分を助けてくれるはずの妻も家におらず、誰も助けてくれないようなもの。以上のことを「其(その)宮(きゆう)に入り、其(その)妻(つま)を見ず。凶」と言うのである。
 六三が自分の家に帰っても誰も助けてくれない。自分の家に帰っても妻は助けてくれない。家を出て行ってしまったのである。どうすることもできない。最早死ぬしかない。
 六三変ずれば沢風大過の危機的な状況に陥る。それゆえ「其(その)妻を見ず。凶」と言い、象伝には「其(その)妻を見ずとは、不(ふ)祥(しよう)なる也」と言うのである。「不祥」の「祥」とは、善・福・吉のことなので、「不祥」とは、災難や凶運が極まることである。

九四。來徐徐。困于金車。吝有終。
象曰、來徐徐、志在下也。雖不當位、有與也。
○九四。來ること徐(じよ)徐(じよ)たり。金(きん)車(しや)に困(くる)しむ。吝。終有り。
○象に曰く、來ること徐徐たりとは、志下に在る也。位に當らずと雖(いえど)も、與(よ)有る也。
 「金(きん)車(しや)」とは九二を指す。「金」は陽剛の形、「車」は坎の形。重い物を載せて動かし進み行くと云う意味に例えている。
 火天大有の九二に「大車以て載せる」とあり、山天大畜の九三に「其の輪(りん)を曳く」とある。みな剛健の性質を具えている。
 九四は陽剛の性質で才能を有しており、王さまの側近の位に居るが、困の時には、一人の力では民衆を困窮から救い出すことはできない。それゆえ賢者の力を借りて、共に力を合わせて、天下国家を困窮している状態から救いたいと思っている。
 だが、困の時においては、九二以外に賢者はいない。九二は下卦坎の主爻ゆえ、困窮の落とし穴に陥っており、九四と応じる関係にはない。そのため、九四の行動は遅々としているのである。
 君子は困の時に中って、闇雲に上に進んではならない。九四が困窮する所以である。それゆえ「來(く)ること徐徐たり。金(きん)車(しや)に困(くる)しむ」と言うのである。
 九四は大臣(側近)の位に居て、困の時に遭遇するが、自分の力では天下国家を救うことができない。下に賢者を求めれば、自分の地位を失いかねない。陽爻陰位で中庸の徳を欠いているので、吝(りん)の誹(そし)り(ケチがついたり、そしられたりすること)を免れない。自分の過ちを改めれば、吝の誹りを免れることができる。賢者を探し出せば、天下国家を困窮から救い出すことができる。それゆえ「吝(りん)。終有り」と言って、功罪相半ばする。
 「金(きん)車(しや)に困しむ」の解釈は次の通りである。九四の応爻である初六は真っ暗な深い谷に迷い込んでいる。九四は初六を救い出そうとするが、自分の力では初六を救い出すことができずに、お互い逢うことができない。だが、九四と初六が陰陽応じるのは正しいことである。九二がそれを邪魔するのは正しくないことである。究極的には邪悪な者は正しい者に勝つことができないのである。
 また、次のような解釈でも意味は通じる。勢いだけで悪事を続けることはできない。初六が長い困窮の時から脱出すれば、九四と応じ合うことができる。はじめはケチがついても、最後には、天下国家の困窮を救うことも可能となる。
 象伝に「位に當らずと雖(いえど)も、與(よ)有る也」とある。九四が真心をもって賢者を捜し求めるから、応じる関係ではない九二の賢者と共に天下国家の困窮を救うことができるのである。

九五。劓刖。困于赤紱。乃徐有説。利用祭祀。
象曰、劓刖、志未得也。乃徐有説、以中直也。利用祭祀、受福也。
○九五。劓(ぎ)刖(げつ)す。赤(せき)紱(ふつ)に困(くる)しむ。乃(すなわ)ち徐ろに説(よろこび)有り。用て祭祀するに利し。
○象に曰く、劓(ぎ)刖(げつ)すとは、志未だ得ざる也。乃(すなわ)ち徐ろに説(よろこび)有りとは、中直なるを以て也。用て祭祀するに利しとは、福を受くる也。
 「劓(ぎ)刖(げつ)す」の「劓(ぎ)」とは「劓(はなき)られる」と云う意味。「劓(はなき)られる」とは、九五のように上に位する者の困難さを例えた言葉である。すなわち、君位に在るものの災厄や困窮である。また、面目を失うと云う意味もある。「劓(ぎ)刖(げつ)す」の「刖(げつ)」とは「刖(あしき)られる」と云う意味。「刖(あしき)られる」とは、九五の王さまよりも下の位に在る者の困難さを例えた言葉。すなわち、民衆が疾病や厄災に苦しんでいると云うことである。また、民衆には為(な)す術(すべ)がないので、立ち行くことが難しいという意味もある。
 以上のことから、上位に在る者が困窮することを「劓(ぎ)」と云い、下位に在る者が困窮することを「刖(げつ)」と云う。陽爻が上卦にあっても、下卦にあっても困窮するという形である。
 また、「赤(せき)紱(ふつ)」の「紱(ふつ)」とは、諸侯の飾りである。これは九二を指している。九二が至誠の心で祖先の神霊をお祀りするように、天子にお仕えすることを云うのである。
 九二と九五の関係は、陽爻同士なので陰陽応じていない。だが、共に剛健の性質と中庸の徳を具えていることから、困の時の困窮を救おうとする志を同じくしており、応じる関係にある。
 九五は偉大な君主の地位に居る。偉大な君主は、天下国家の心配事を自分の心配事と捉えており、天下国家の困窮を自分の困窮と捉えている。また、自分を補佐してくれている上六も六四も困窮している。このような状況の中で、上位に在る者と下位に在る者の心配事・困窮・苦しみを、一身で負担しているのが九五の王さまである。それゆえ、「劓(ぎ)刖(げつ)す」と言うのである。
 九五の王さまは剛健中正の才能と人徳を具えているが、困の時に対処するには、一人の力で天下国家を困窮から救い出すことはできない。幸い剛健中庸の徳を具えている九二の賢臣が下に存在しているが、陽爻同士ゆえすんなりと応じる関係にならないことに苦しんでいる。それゆえ「赤(せき)紱(ふつ)に困(くる)しむ」と言うのである。
 困の時に対処するには、九二を除いて共に力を合わせて天下国家を困窮から救い出せる者はいない。それゆえ、礼を尽くして、本気で共に天下国家のために力を合わせようと依頼すれば、剛健中庸の徳を具えた者同士、志を同じくして、時間はかかったとしても、必ずや力を合わせて天下国家を困窮から救い出すことができる。
 以上のようであるから、九五の王さまと九二の賢臣が剛健中庸の徳を一つに合わせて、終に天下国家を困窮から救い出すので、民衆は大いに喜んでみんなが幸せになる。それゆえ「乃(すなわ)ち徐(おもむ)ろに説(よろこび)有り」と言うのである。
 君主の地位に在る者は、天下国家のあらゆる艱難辛苦を見逃してはならないのである。その状況を坐って見ているだけではいけない。どのようにすれば、民衆を救い出すことができるのかをあれこれ考えて、最善の対策を立て、それを実行するのに中って最適な人物を抜擢任用するように心がけ、それが難しい場合は、至誠の心で神仏をお祀りしてご加護を賜るよう、ありとあらゆる方法で最善を尽くすべきである。
 人の道は天の道に通じるのである。今こそ、神仏のご加護を賜る時である。神仏をお祀りして、ご加護を賜るには、時を得なければならない。それゆえ、水火既済の九五の爻辞に「東(とう)隣(りん)の牛を殺すは、西(せい)隣(りん)の禴(やく)祭(さい)して、実(まこと)にその福を受くるにしかず/牛を生け贄に供えるような盛大なお祀りをしてはならない。柔順に慎んで質素なお祀りをして誠実さを貫けば、神仏からご加護を賜るであろう」と言い、象伝に「東隣の牛を殺すは、西隣の時なるにしかざるなり。実にその福を受くとは、吉大いに来たるなり/盛大なお祀りは質素で誠実なお祀りには及びない。誠実ゆえに神仏のご加護を賜ることができ、吉運を招き寄せることができるのである」と言うのである。
 九五の王さまが、天下国家の困窮を救うために、誠実な心を尽くして神仏をお祀りすれば、王さまの真心は神仏に通ずる。天下国家の困窮から民衆を救い出すことができるのである。
 困の時に中って、神仏のご加護を賜るのは、時を得なければならない。九五の今こそ、その時である。それゆえ「用て祭祀するに利し」と言うのである。
 九二の爻辞に「用て享(きよう)祀(し)するに利し/祖先をお祀りするがよろしい」と云い、九五の爻辞に「用て祭祀するに利し/神仏をお祀りするがよろしい」と云う。大意は同じであり、真心で祖先や神仏をお祀りすれば、ご加護を賜ると云うことである。
 「お祭り」も「お祀り」も、人の道が天の道に通じることである。「お祭り」は神仏を尊崇することであり、「お祀り」はご先祖様を敬うことである。
 九五は王さまの地位なので神仏をお祭りし、九二は臣下の地位なのでご先祖様をお祀りする。各々分に応じて「おまつり」するのである。
 象伝に「志未だ得ざる也」とあるのは、最初は天下国家の困窮を救うことはできないと云うことである。「中直なるを以て也」とは、九五と九二が剛健中庸の徳を同じくして、天下国家の困窮を救うために立ち上げると云うことである。「福を受くる也」とは、姿勢の心で神仏をお祭りすればご加護を賜り、終には天下国家の困窮から民衆を救い出すことができると云うことである。

上六。困于葛藟臲卼。曰動悔。有悔往吉。
象曰、困于葛藟、未當也。動悔、有悔吉、行也。
○上六。葛(かつ)藟(るい)に臲(げき)卼(ごつ)に困(くる)しむ。曰(いわ)く動けば悔(く)ゆと。悔ゆる有りて往けば吉。
○象に曰く、葛(かつ)藟(るい)に困(くる)しむとは、未だ當(あた)らざる也。動けば悔(く)ゆと悔(く)ゆる有るは、吉にして行く也。
 「臲(げき)卼(ごつ)に困しむ」の「臲(げき)卼(ごつ)」とは、動揺して不安な気持ちになり、危険を感じて恐れていると云う姿である。互体(三四五)巽の風が吹いて葛(かつ)藟(るい)(くずとつたかずら)が揺れ動く形である。
 上六は陰爻陰位で中庸の徳を欠いており、応爻の助けもなく、困の時の終局に居るのである。何かを為し遂げようとすれば、才能がないので何も解決することができない。休もうとすれば、困惑する事態が差し迫っているので、危険を感じて恐怖心を抱き、安心して休むこともできない。
 「くず」や「つたかずら」が、樹木の上に蔓延(はびこ)って風に揺り動かされているようである。自分が険阻艱難に陥っていることを、よく認識すべきである。
 「葛(かつ)藟(るい)に臲(げき)卼(ごつ)に困(くる)しむ」とは、今の困窮している状態を云い、「曰(いわ)く動けば悔(く)ゆと。悔ゆる有りて往けば吉」とは、困窮している状態から脱出する方法を教えているのである。
 上六は陰湿で柔らかい「くず」や「つたかずら」なので微力で自ら立つことはできないが、幸い九五の剛強な樹木の上に在る(比している)ので、九五を頼れば安心できる。己の分をよく知り、九五に従えば、困窮から脱出できるはずである。
 けれども、小人は、一寸うまくいけば、調子に乗って己の力を過信する。上六が小人ゆえ九五に頼って困窮から脱出できたことを己の力と過信し、調子に乗って九五を離れて自力で対応しようとすれば、巽の風に吹かれて、また困窮して不安な気持ちに陥る。それゆえ「葛(かつ)藟(るい)に臲(げき)卼(ごつ)に困(くる)しむ」と言うのである。
 上六は困窮から脱出しようと、色々試みるが、困の時の終局に居て、応ずる関係に在る六三とは応じないので、動けば益々困窮に陥る。それゆえ「動けば悔ゆと」言うのである。
 このような状況に陥り、上六は九五に甘えていた自分を恥ずかしく思い、慎みの心を抱いて、自戒するので、困窮から脱出して、吉運を招き寄せる。それゆえ「悔ゆる有りて往けば吉」と言うのである。「曰(いわ)く動けば悔(く)ゆ」の「悔ゆ」とは、「しまった」と後悔すると云う意味であり、「悔ゆる有りて往けば吉」の「悔ゆる」とは、反省して改めると云う意味である。
 「往けば吉」の「往く」とは、反省した後で己の分に安んじて慎みの心を抱くこと。「往けば吉」の「吉」とは、困窮に陥って危険を感じて恐怖心を抱くことから免れることである。
 象伝に「未だ當らざる也」とあるのは、まだ人の道を履み歩いていないと云うこと。困の時に対処する道を知らないのである。上六は自分の非を後悔・反省して、固く正しい道を守れば、困窮している状態から脱出し、吉運を招き寄せる。「吉にして行く也」とは、吉運を招き寄せる道を履み歩くことでる。

 

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