呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約 現代語訳 最終校正 317 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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皇紀2680年、令和2年3月4日から、高島易斷の古典解説文を要約しながら現代語訳(意訳)して参ります。

呑象高島嘉右衛門著 増補 高島易斷 古典解説文の要約

最終校正

45.沢地萃

□卦辞(彖辞)
萃、亨。王假有廟。利見大人。亨。利貞。用大牲吉。利有攸往。
○萃(すい)は亨(とお)る。王、有(ゆう)廟(びよう)に假(いた)る。大人を見るに利し。亨(とお)る。貞しきに利し。大(たい)牲(せい)を用ひて吉。往く攸(ところ)有るに利し。
 萃は下卦坤と上卦兌の組み合わせである。上卦兌は沢、下卦坤は地。大地の上に沢がある形である。
 沢は水を蓄える池や湖のような場所である。しかし、大地の上に水が覆っていると見れば、洪水が平地を埋めている形にもなる。水が沢山集まっているので萃と名付ける。
 萃は集まるという意味がある。四爻を堤防と見立てれば、川の水を堰き止めて貯水場を作り、この水を田畑に引き入れて、田畑を潤させ、農産物を沢山収穫しようとしていると見ることもできる。だから民衆が喜んで集まってくるのである。

□彖伝
彖曰、萃、聚也。順以説、剛中而應。故聚也。王假有廟、致孝享也。利見大人、亨、聚以正也。用大牲吉、利有攸往、順天命也。觀其所聚、而天地萬物之情可見矣。
○彖に曰く、萃は聚(あつ)まる也。順にして以て説(よろこ)び、剛中にして應(おう)ず。故に聚(あつ)まる也。王有(ゆう)廟(びよう)に假(いた)るとは、孝(こう)享(きよう)を致す也。大人を見るに利し、亨(とお)るとは、聚(あつ)まるに正を以てする也。大(たい)牲(せい)を用ひて吉、往く攸(ところ)有るに利しとは、天命に順ふ也。其の聚(あつ)まる所を觀て、天地萬物の情見る可(べ)し。
 萃は上卦兌が悦び、下卦坤は順う性質。上が悦んで下は順う。相手が悦んで自分が順う形である。悦びが溢れる処には民衆が集まる。沢が大地の上に在り、水が集まっているのである。
 兌の少女が坤の母と同居しており、互体(二三四)の艮の少年がやって来て家族が集まる形でもある。人や動植物などあらゆる生き物が集まり交わって文明社会を築き上げる。
 貴い存在も卑しい存在もお互いに支え合って社会を作り上げている。これが、萃が亨る理由である。
 地上に水が蓄えられている時は、上も下も、相手も自分も共に調和して争い事がなくなる。水地比の時に似ている。水地比は一陽五陰で陽爻は九五のみ。権力は九五の王さまに帰しているので、民衆は九五の王さまを慕って、誰も迷わない。沢地萃は四爻と五爻が陽爻なので、権力が二分しており、九四の宰相がある程度の実権を握っている形になっている。
 九四は陽爻陰位なので、リーダーとしての力量はあるが、位は正しくない(不正)。九五の側近としての役割を全うすることができないのである。九五は陽爻陽位で剛健中正の君徳を具えている。六二の忠臣は九五に応じている。リーダーとしての権力は九四と九五の二重構造になっている。しかし、組織が分裂する心配はない。萃の時がすらっと通る理由である。
 以上のことを「萃は聚まる也。順にして以て説び、剛中にして應ず。故に聚まる也」と言うのである。
 「剛中」は九五を指している。「剛中にして應ず」の「應」は、六二と九五が陰陽相応じていることを云う。
 それゆえ、萃の時は物事が成就する。万物が豊かで盛んとなり、神仏のご加護を賜って人々は和合しているのである。
 人々が和合して天下国家が治まっている理由は、神仏のご加護とご先祖様のお陰である。それゆえ「王、有(ゆう)廟(びよう)に假(いた)る」と言う。「有(ゆう)廟(びよう)」とは、ご先祖様の御(み)霊(たま)をお祀りする場所である。
 民衆から支持されるためには、民衆の心を捉えて多くの民衆から信服されることが肝要である。民衆から信服されるためには、為政者が親孝行を率先して行うことが大切である。親孝行を突き詰めて考えるとご先祖様を敬うことに行き着く。すなわちご先祖様を有廟にお祀りすることが何よりも大切である。
 九五の王さまと九四の宰相が共にご先祖様をお祀りして、民衆のお手本となれば、神仏のご加護を賜ることができる。孝経に「民を用いて和睦し、上下怨み亡き」と書いてある。それゆえ、「王、有(ゆう)廟(びよう)に假(いた)るとは、孝享を致す也」と言うのである。
 中庸の徳を具えていない人は、抽象的な理屈を理解できない。心や魂は目に見えないので、神仏を尊崇することができない。だから、神仏の存在を疑うようになる。そこで、「王、有廟に假(いた)るとは、孝享を致す也」という文章を用いて、神仏を尊崇することの大切さを説いている。
 神仏を尊崇すれば、誰もがご加護を賜ることができる。神仏の存在を疑えば、ご加護を賜ることはできないのである。
 以上のことから、易経の六十四卦の中で、沢地萃と風水渙の二つの卦のおいて、神仏をお祀りして尊崇することの大切さを示しているのである。
 しかし、沢地萃の時に万物が集まることには、正不正の功罪がある。万物が集まることによって不正が現れれば、凶運を招き寄せる。不正が現れないように、人として正しい道に従うことが肝要である。このことを「大人を見るに利し、亨るとは、聚まるに正を以てする也」と言うのである。
 「大人」とは、九五を指している。万物が集まる萃の時は、お祭りを行えば多くの人々が集まってきて、大いに賑わい経済的に豊かになる。だから、「大(たい)牲(せい)を用ひて吉」と言うのである。
 九五は王さまの位である。祭祀を実施して王朝を育んでくれたご先祖様を尊崇し、また、神仏やご先祖様を尊崇することを通じて、民衆の心を一つにまとめる。王さまが自ら親孝行を実行して民衆のお手本になれば、民衆は王さまを信頼するようになる。
 以上を卦の形として考えると、九五を「天」、互体(三四五)巽を「命」とする。すなわち、下卦坤は九五の王さまに柔順に従い、またそれを「天命」と心得ていることになる。
 以上のような形だから、九五の王さまの下に万物が集まって繁栄する。天地万物皆集まって活発に活動する。このことを「其の聚まる所を觀て、天地萬物の情見る可し」と言うのである。
 萃を人間関係に当て嵌めれば、坤の母が下に、兌の少女が上に在る。母は少女を愛しており(下で支えている)、少女は母を慕っている(上で悦んでいる)。親子の情が通じている形である。
 萃を国家に当て嵌めれば、上卦の政府は兌の性質を有して、和合と悦楽を目的とする政治を実施している。下卦の民衆は地の性質を有して、柔順に政府の政治に従っている。それゆえ、萃の時は、政府は民衆に悦んで頂くための政治を実行し、民衆は悦んでその政治に順うのである。
 しかも、九五の名君が王さまの地位に就いている。そして、九四の宰相はとても賢く、王さまを補佐している。王さまも宰相も剛健で明るい才能と性質を有しているので、沢山の民衆が、この政府の下に集まってくるのである。
 さらに、六二の大臣と九五の王さまは陰陽相応じており、上六の相談役は九五の王さまと相比している。九五の王さまは臣民から支持されており、臣民は王さまに忠実である。
 素晴らしい王さまと賢い臣下が、まるで「雲は龍に従い、風は虎に従う」ように交わって、私心を抱かない。
 以上のようであるから、萃の時の民衆は、九五と九四の下に沢山集まってくる。だから、この卦を「萃(多くの人や物が集まる時)」と名付けたのである。

□大象伝
象曰、澤上於地萃。君子以除戎器、戒不虞。
○象に曰く、澤、地に上るは萃なり。君子以て戎(じゆう)器(き)を除(おさ)め、不(ふ)虞(ぐ)を戒(いまし)む。
 萃は地沢臨の上卦と下卦を入れ替えた形だから、「澤、地に上るは萃なり」と言うのである。沢は大地が窪んだ所、大地は沢に水が溜まるので常に潤っている。お互いに補い合う関係である。国家がよく治まっており、天下泰平であることを現している。
 九四と九五以外に陽剛の存在がないのは、全ての民衆が政府(九五と九四)に帰服していることを現している。
 全体的には、天下泰平で何も問題ないように見えるが、それは外側だけで、内側には問題がありそうである。
 国家がよく治まっている状態にも弊害はある。それは、社会の外側ばかりを取り繕って、内側を充実させることを忘れることである。天下泰平の状態に慣れてしまい、人々は社会に対して阿(あ)諛(ゆ)迎(げい)合(ごう)するようになり、常に保身を図るようになる。
 君子は、世の中を憂えることが、その役割だから、よくよく反省しなければならない。君子は、天下泰平を維持するために、人々が集まることの弊害(争いが起こること)を考えて、安全保障体制を強固にして、騒乱や事変に備えなければならない。
 君子の心がけは、天下泰平の時でも騒乱や事変が起こることを予測して、事前に備えておくことである。
 沢地萃の時は天下泰平の時だが、その一方で、洪水が地上に氾濫する形をしているので、人々が集まる所、集落が集まっている処では争い事が生じやすい。武力を増強して安全保障体制を固め、騒乱や事変に備えるべきである。
 天下泰平で社会が繁栄すればするほど、天下国家を治めるためには武力が必要不可欠であることを忘れてしまうものである。萃は外側は剛健だが、内側は柔弱、外側は充実しているが、内側は空虚であるという性質があるから、武力を増強して安全保障体制を固め、騒乱や事変に備える必要がある。それゆえ「君子以て戎(じゆう)器(き)を除(おさ)め、不(ふ)虞(ぐ)を戒(いまし)む」と言うのである。
 海(大きな沢)に面している所では、堤防を作って津波に備えることが求められる。上卦兌は西の方位の殺気であり、陰陽五行では金に当て嵌まる。それゆえ「戎(じゆう)器(き)」と言う。互体(三四五)は巽である。それゆえ「除(おさ)め」と言う。下卦坤は自分を隠して外に現れない性質がある。それゆえ「不(ふ)虞(ぐ)」と言う。上卦兌は口を表す。それゆえ「戒(いまし)む」と言うのである。

□爻辞(象辞)と象伝(小象伝)
初六。有孚不終。乃亂乃萃。若號一握爲笑。勿恤。往无咎。
象曰、乃亂乃萃、其志亂也。
○初六。孚(まこと)有れども終(お)へず。乃(すなわ)ち亂(みだ)れ乃ち萃(あつ)まる。若(も)し號(さけ)べば一(いち)握(あく)して笑(しよう)と爲(な)る。恤(うれ)ふる勿(なか)れ。往きて咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、乃ち亂(みだ)れ乃ち萃(あつ)まるとは、其(その)志(こころざし)亂(みだ)るる也。
 萃は下卦坤を民衆とする。下に居てもっぱら阿(あ)諛(ゆ)迎(げい)合(ごう)して生きており、人の道を追求するような志は持っていない。
 初六は陰爻陽位で九四に応じている。九四に従おうと思っている一方で、仲間の三陰との関係も断ちがたく、九四に従って出世するか、仲間と気楽に生きていくか、迷っている。
 一般的に九五の王さまに従って天下国家に尽くすことが大事な事は、誰もが知っているが、初六の応爻は九四なので、九四と行動を共にしなければ、初六が身を立てることはできない。
 それゆえ、初六は一方では九五の王さまに従おうと思っているが、もう一方では九四の大臣あるいは宰相に従おうと思っている。迷いに迷っている初六だが、どちらか一方に従うことを求められて、終に九四に従うことを決める。
 初六は柔弱不中正だから、応じる相手に対する真心が定まらないのである。だから「孚(まこと)有れども終へず」と言うのである。
 「孚(まこと)(真心)」は坤が有している性質の一つである。「終へず」とは、最下にあるから一つのことを全うできないと云うことである。すなわち、初六には真心はあるけれども、それを貫くことができないのである。
 それゆえ「乃ち亂(みだ)れ乃ち萃(あつ)まる」と言う。萃の時(多くの人や物が集まってくる時)は、最初は上下交わろうとするがうまく交わらずに乱れる。だが、徐々に調和するようになって、終には和合一致して天下泰平の時に至るのである。
 最初は迷いに迷っていた初六だが、遂には正応の九四に従おうと志を決めて、自ら号泣するほど九四に従って全力を尽くせば、九四は喜んで初六の面倒を見てくれる。やがてはお互いガッチリと握手するような強固な信頼関係を築き上げる。以上のことを「若(も)し號(さけ)べば一(いち)握(あく)して笑(しよう)と爲(な)る」と言うのである。
 元々、初六と九四は正応の関係である。だから、初六は九四が自分を受け入れてくれないなどと心配してはならない。
 「恤(うれ)ふる勿(なか)れ」とは、初六を安心させて、慰め、励ましている言葉である。「往(ゆ)けば咎(とが)无(な)し」とは、九四に従うことを勧めている言葉である。
 また、次のように考えることもできる。
 君子を尊崇して従おうと思っている人物は、一貫して真心を保つことができる。公に奉じる君子を尊崇せず、私利私欲を追求する小人に従おうと思っている人物は、一時真心を抱くことがあっても長続きしない。確乎不抜の志を打ち立てないと、私利私欲を追求する小人に甘んじて、善からぬ人生を歩むことになる。そんな人生を送ってはならない。
 初六が心を新たにして九四に従えば、災難を免れる。君子を尊崇して全力を尽くせば幸福を招き寄せることができる。君子を目指して笑顔を大切にする人は泣き叫んだりしない。
 小人に甘んじて直ぐに泣き叫ぶ人は、笑顔を忘れてしまうのである。最初は迷っていても最後は君子を目指せば、何事も通じるようになる。最初は泣き叫ぶかもしれないが、最後は笑顔を手に入れる。泣き叫んだり笑顔になったりする人は、志を確立していない。それゆえ、象伝に「其の志亂(みだ)るる也」と言うのである。

六二。引吉。无咎。孚乃利用禴。
象曰、引吉、无咎、中未變也。
○六二。引けば吉。咎(とが)无(な)し。孚(まこと)あり、乃ち禴(やく)を用ふるに利(よろ)し。
○象に曰く、引けば吉、咎(とが)无(な)しとは、中未だ變(へん)ぜざる也。
 「禴(やく)」とは、夏祭りのことである。夏祭りの礼は簡素である。沢地萃は四陰が二陽の下に集まる時である。初六は九四と応じている。また六三は九四と比している。初六も六三も九五とは直接関係ないから、九五の王さまの下には集まらない。
 そういう中にあって、柔順中正の六二は、現場を任された忠臣として、九五の王さまと正応の関係にある。六二が民衆を率いて九五の王さまに帰服すれば、王さまと民衆は和合するのである。
 その役割は計ることができないほど大きい。それゆえ吉運を招き寄せて、問題は何もないのである。
 しかし、九四が大臣の地位に就任しており、初六と六三は九五の王さまの下には集まらない。初六も六三も大臣の地位に在る九四の下に集まるので、九五の王さまの忠臣である六二は、その役割を全うできないのである。
 それゆえ、初六と六三を率いて九五の王さまに帰服させれば、吉運を招き寄せる。以上を「引けば吉。咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 「引けば吉。咎(とが)无(な)し」の「引けば」とは、初六と六三を率いて九五に帰服させれば、と云うことである。
 「吉。咎(とが)无(な)し」とは、六二がその役割を全うするので、咎められることはないと云うことである。また「引けば吉」とは、九五の忠臣として初六と六三を率いて九五の下に馳せ参ずれば、吉運を招き寄せると云うことである。
 六二の忠臣は九五の王さまに忠実なので、九五の王さまの役に立とうとする。最初は失敗しても、挫(くじ)けることなく、何度もチャレンジして、忠臣としての役割を全うしようとする。
 九五の王さまと六二の忠臣は、お互いに求めることに始まり、信じることに終わる。臣下は王さまに仕えようと思っている。しかし、王さまが臣下に求める気持ちは、臣下が王さまに仕えようとする気持ちよりも、切実である。
 萃の時は九四の大臣がキーマンである。初六は九四に応じており、六三は九四に比している。九五の王さま六二が初六と六三を率いて、九五の王さまに仕えなければ、王さまの権力は分散して、組織の一体感が損なわれてしまうのである。
 中庸と正しい位を得ている六二と九五が応じることによって、九五と九四のツートップがバランスを取ることができる。ツートップがバランスを取るから、君臣の関係が正しくなる。
 六二は王さまに真心から仕えており、天命(天の道と人の道)を全うする人物である。真心をこめて神仏をお祀りすれば、どんなお祀りでも、神仏のご加護を賜ることができる。
 下の人々は上の人々を尊崇し、上の人々は下の人々に恩恵を施す。上の人々も下の人々も真心をこめてお付き合いする。人が神仏に学ぶのである。それゆえ「孚あり、乃ち禴(やく)を用ふるに利し」と言うのである。神仏をお祀りすれば人々は集まるけれども、お祀りしなければ人々は去って行ってしまう。
 萃は沢山の人や物が集まる時である。だから、卦辞・彖辞に「王、有(ゆう)廟(びよう)に假(いた)る」とある。
 爻の関係でこれを捉えれば、九五は神仏の位であり、六二は祭主の位である。六二の祭主は柔順中正の人徳を具えている。六二の祭主が九五の神仏をお祀りする。九五の神仏は剛健中正の神徳を具えており、六二の祭主の真心を受け容れる。
 それゆえ、六二の爻辞において、神仏をお祀りすることの大切さを説いているのである。「禴(やく)」は質素なお祀りである。すなわち、六二の祭主は質素である。
 象伝に「中未(いま)だ變(へん)ぜざる也」とあるのは、六二の祭主は中正の柔順中正の人徳を具えているから、仮に九四に邪魔されても、祭主としての役割を守り続けると云うことである。
 九五の神仏をお祀りすることの意義が世間に伝わらなくても、神仏を尊崇する心は昔も今も変わらない。六二が九五の神仏を尊崇する心は初六と六三を感化するので、やがては、初六も六三も九五の王さまの下に集まるようになるのである。

六三。萃如、嗟如。无攸利。往无咎小吝。
象曰、往无咎、上巽也。
○六三。萃(すい)如(じよ)たり、嗟(さ)如(じよ)たり。利(よろ)しき攸(ところ)无(な)し。往(ゆ)けば咎(とが)无(な)し。小しく吝(りん)。
○象に曰く、往(ゆ)けば咎(とが)无(な)しとは、上、巽(したが)へば也。
 萃の道は、九五の王さまの下に集まることを正しいと考える。それゆえ、六三も九五の下に集まろうと欲するが、すぐ上に居る九四が邪魔をする。九五は六三と応比の関係でないことから、六三はやむを得ずに九四に接近するのである。
 柔弱不正の六三には才能も人徳も全く足りないので、周りの人々は誰も六三を応援しない。すなわち六三は孤立する。
 本来は忠実な部下であるべき六二は九五を慕って六三を蔑(ないがし)ろにするので六三は恥をかく。それゆえ「萃(すい)如(じよ)たり、嗟(さ)如(じよ)たり。利しき攸(ところ)无(な)し」と言うのである。
 九四は宰相の位に居て、九五の王さまから信頼されており、力を尽くして国政を支える存在だから「往けば咎(とが)无(な)し」と言う。
 だが、六三は不中正(陰爻陽位で位が正しくなく、やり過ぎる性質)なので、九五の王さまの下に集まることができたとしても、ちょっと恥ずかしい思いをするので「小しく吝(りん)」と言う。
 象伝に「上、巽(したが)へば也」とあるのは、六三の上には九四と九五のツートップが居り、ツートップに喜んで順えば問題は起こさないと云うことである。これは、巽(互体三四五)が有している巽順な性質を読み取っているのである。
 ツートップに順えば、拒まれるはずはないのである。

九四。大吉、无咎。
象曰、大吉、无咎、位不當也。
○九四。大(だい)吉(きつ)にして咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、大(だい)吉(きつ)にして咎(とが)无(な)しとは、位(くらい)、當(あた)らざる也。
 萃は九四と九五の二陽(ツートップ)が、共に剛健にして明智の才能と人徳を具えているから、臣下も九四と九五を慕っている。だから民衆も九四と九五に徳化され帰服するのである。
 九四は陽爻陰位で九五の王さまを補佐することがその役割である。また、内卦の陰爻と応比の関係にある(六三と比し、初六と応じている。あるいは、内卦全体を一つの陰爻と捉えれば、内卦を掌握している)ので、民衆の支持を得ている。
 すなわち、民衆を率いて九五の王さまを補佐している。さらに、九五の命令によって、民衆に恩恵を施す役割を担っている。それゆえ、君臣調和して上も下も喜んで現体制に順うのである。
 けれども、九四は不中正(陽爻陰位で位が正しくなく、中庸の徳を具えていない)なので、九五の王さまに仕え、六三以下の部下を率いるにあたって、不正に流れる恐れがある。
 人の道を弁えて九五の王さまに仕え、王さまに媚(こ)び諂(へつら)うことなく、人の道に従って民衆を率いるべきである。己の名誉を求めてはならない。王さまを背くことなく、民衆を欺くことなく、自分に恥ずかしいところがなければ、問題が起きようはずがない。以上が爻辞に「大吉」とある理由である。
 九四が民衆から支持されるのは、九五の王さまの威光に由るところが大きい。もし九四が自分の功績を誇ったり、人徳を磨く努力を怠るようになれば、「大吉」から「大凶」「大悪」の兆しが生まれる。
 九四が公明正大で私心を捨てて天下国家のために尽くせば、問題が生じる心配は何もない。以上のことから「大吉にして咎无し」と言うのである。
 そもそも九四の地位は、危ういところがある。自分は陽剛の才能と人徳を具えて、萃の集まる時に貢献している。九四に功績を誇る気持ちや王さまに取って代わろうとする気持ちがなくても、人間は権力に惹かれるものである。
 初六に応じ、六三に比し、民衆から慕われる九四の立場は、蟻(民衆)が蜜(九四)に集まるようだから、危ういのである。
 蜜(九四)に集まってきた蟻(初六・六二・六三)を追い払っても出て行かない。それどころか蜜の甘さを覚えて、蟻の仲間がどんどん集まって来て、蜜の周りは益々賑やかになる。
 そのことが、政府や民衆の中で嫉妬や軋(あつ)轢(れき)を生ずるようになる。沢に水が満ちれば草木は茂り多くの人や物が集まるが、水が集まれば沢は氾濫・決潰する。人が集まれば争いが始まり、物が集まれば奪い合いが起こる。蜜に集まってきた蟻の仲間は、やがて争うようになり、終には、奪い合いが始まるのである。
 また蟻(民衆)を集めた蜜(九四)が仕える九五の王さまと九四の間で軋轢が生じるようになる。
 九五の仕える立場の九四は不正(陽爻陰位)で中庸の徳を具えていないので、九五と九四は憎しみ合うようになる。その結果、政府と民衆の間にも亀裂が生じて、それまで調和していた状態が崩れていき、政府内の人々や民衆の間で相手を疑うような風潮が生まれる。
 それゆえ、九四は君子としての振る舞いを全うすることが求められる。自分がやってきたことを反省・改心して、九五の王さまに仕える側近としての志を強固にして、九五と一心同体であることに喜びを感じるように自分を持って行くべきである。また、九五の王さまに取って代わろうなどという野心を間違えても抱かないようにして、九五の王さまから疑われないようにするべきである。九四が側近としての役割に徹すれば、特に問題は起こらないのである。

九五。萃有位。无咎。匪孚。元永貞、悔亡。
象曰、萃有位、志未光也。
○九五。有位に萃(あつ)まる。咎(とが)无(な)し。孚(まこと)とせられず。元(げん)永(えい)貞(てい)なれば、悔(くい)亡ぶ。
○象に曰く、有位に萃まるとは、志未(いま)だ光(おおい)ならざる也。
 萃は四陰(上六の相談役と初六・六二・六三の民衆)が二陽(九五の王さまと九四の側近)の下に集まる時である。
 九四は九五を補佐する側近。王さまを差し置いて側近が民衆を率いれば、王さまと側近の間に軋轢が生じて、組織上の問題を引き起こすことになる。九四の側近は沢地萃の実力者なのである。
 王さまの地位に在る九五は偉大で王さまの役割を全うする。九四の側近を介して民衆を集める(民衆に支持される)ことにどうして問題があろうか。それゆえ「有位に萃(あつ)まる」と言うのである。
 しかし「有位」とは、王さまの位に居ることであり、王さまとしての役割を全うすることを意味しない。それゆえ「咎无し(問題はない)」に止まり、王さまとして民衆の人心を帰服させることはできないのである。
 また上卦兌には悦び崩れるというもろさがあり、互体巽(三四五)には疑われるという心配がある。すなわち、九五には王さまとしての資質に欠けるところがある。
 だから、初六と六三は九五を信じられない。民衆が九五の王さまを信頼していないのは、九五の王さまには、民衆を思いやる真心が不足しているように感じるからである。
 九五に大いなる永貞の君徳(正しい道を幾久しく固く守る徳)があり、民衆に恩沢を施そうとする志を幾久しく抱き続ければ、民衆は王さまには民衆を思いやる真心があると感じるのである。
 これまでは九四の側近を信頼しており、九五の王さまは信頼していなかった民衆も、九五の王さまを信頼するようになる。以上が「悔(くい)亡ぶ」とある理由である。
 以上のことから「孚(まこと)とせられず。元永貞なれば、悔亡ぶ」と言うのである。「孚(まこと)とせられず」とは、民衆が九五の王さまには真心が感じられないので、王さまを信頼することができないことを云う。「元永貞なれば」とは、王さまに求められる元(思いやりの徳)・永(幾久しく変化しない徳)・貞(正しい道を固く守る徳)の徳が九五にあれば、民衆は王さまに帰服するようになることを云う。「悔(くい)亡ぶ」の「悔(くい)」とは、九五の君徳は今の状態では完成されていないので、民衆は九五の王さまよりも九四の側近を信頼することから生じる反省の気持ちを云うのである。
 「有位に萃(あつ)まる。咎(とが)无(な)し」とは、表面的には民衆は王さまの地位に在る九五の下に集まるので、何の問題もないように見える、と云うことである。けれども、王さまの位に在っても、王さまに求められる君徳がなければ、天下の人々(民衆)は王さまを信頼しないので、後悔することになる。「吉」と言わずに「咎无し」と言うのは、王さまとしての君徳が不足していることを戒めているのである。
 沢地萃の時の王さまが民衆に信頼されるためには、王さまの地位に就任しているだけでなく、王さまとしての君徳を身に付けていなければならない。その君徳によって民衆の信頼を得て天下国家を一つにすることができなければ、王さまとしての役割を全うできない。
 王さまとしての君徳が足りない場合は、自分を信頼しない民衆を責めることなく、己の君徳が足りないことを反省して、元永貞の君徳を身に付けるべく、毎日修養を重ねるべきである。
 天下国家は民衆の信頼を得てはじめて、安定した状態が長く続くようになり、善い風土を築き上げることができる。王さまが天下に君臨しているだけでは、善き風土を築き上げることはできない。王さまとしての君徳を磨き続けなければ、民衆の厚い支持を得ることはできないのである。
 それゆえ、元永貞の君徳を身に付けることは大切なことである。元永貞の君徳を身に付けてはじめて、民衆は王さまに帰服するようになり、沢地萃の道が完成する。どうして、元永貞の徳を修めずに、天下国家を治めることができるだろうか。
 象伝に「志未(いま)だ光(おおい)ならざる也」とあるのは、剛健中正の徳だけでは、まだ足りないと云うことである。民衆の信頼を得ている九四の側近を怨むようでは、王さまとしての度量が小さすぎる。「両雄並び立たず」という言葉があるが、九五は九四を遙かに上回る君徳を身に付けるべきである。

上六。齎咨、涕洟。无咎。
象曰、齎咨、涕洟、未安上也。
○上六。齎(せい)咨(し)涕(てい)洟(い)す。咎(とが)无(な)し。
○象に曰く、齎(せい)咨(し)涕(てい)洟(い)するは、未(いま)だ上に安んぜざる也。
 「齎(せい)咨(し)涕(てい)洟(い)す」の「齎(せい)咨(し)」とは、嘆(なげ)くと云う意味である。目から出る涙を「涕(てい)」と云い、鼻から出る鼻水を「洟(い)」と云う。すなわち「齎(せい)咨(し)涕(てい)洟(い)す」とは、嘆き悲しんで泣きじゃくり、涙も鼻水も止まらない、という状態である。
 上六は陰柔の性質で中庸の徳を欠いている。沢地萃の卦極に居て応じる相手もいない。上卦兌の主爻ゆえ口先巧みに九五の王さまに媚(こ)び諂(へつら)って取り入ろうとする。典型的な小人である。
 けれども、九五の王さまは、剛健中正の君徳を具えているので、口先で取り入ろうとする上六の誘いには乗らない。
 そこで、上六は九五の王さまに取り入ることができずに、最上位で孤立して嘆き悲しむ。すなわち、嘆き悲しんで泣きじゃくり、涙も鼻水も止まらない、という状態に陥るのである。
 萃は、天下国家を治めるべく九五の王さまが君位に在り、その王さまの下にみんなが集まる時である。けれども、上六は一人それに反して、王さまの上に居てふんぞり返っているのである。
 誰もそのことを咎めようとしなくても、上六自身が王さまの上に居て、心安らぐことはできないのである。もし、上六が自分の身を安定させたいのならば、これまでのあり方を反省して、天下国家に寄与すべく志を打ち立てて、心の底から嘆き悲しみ泣きじゃくり、正しい道に立ち戻るべきである。
 以上のように反省すれば、将来受けるであろう罪を免れることができるが、これまでのあり方を悔い改めようとする意志がなければ、凶運を招き寄せて、大きな被害を蒙ることを知っておくべきである。このことを「齎(せい)咨(し)涕(てい)洟(い)す。咎(とが)无(な)し」と言うのである。
 この爻変ずれば天地否となる。天地否は、上も下も閉塞して、上の政府には下の民衆を制御する君徳がなく、安定した政治を施すことができない時である。
 以上が上六が嘆き悲しみ泣きじゃくる所以である。また上六は、萃の集まる時が終わり、散ずる時に転ずるという段階である。喜びが極限に至ると、悲しみに転じるのは、時の流れである。集まる時には手に手を取って笑っていても、散ずる時になると、嘆き悲しんで泣きじゃくるようになる。分かれる時ほど悲しい時はない。

 

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