五月十三日の言葉 母 | 心の経営コンサルタント(中小企業診断士) 日本の心(古典)研究者 白倉信司

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明治初期に、儒者としてもクリスチャンとしても、又教育家文学者として典型的な君子人、中村敬宇に「母」と題する名文がある。
「一母有り。四才児を携えて一牧師に問うて曰く、子を教うるは何才を以て始めと為すかと。牧師對(こた)えて曰く、汝の笑顔の光、小児を照せしより、子を教うるの機會(きかい)始まると、嗚呼、世、固(もと)より此の母の機會を失う如き者多し。
今世の人、口を開けば聊ち文明と曰い、而(しこう)してその本原に昧(くら)し、余嘗て謂う、国政は家訓にもとづき、家訓の善悪は則ち、その母にかかわる。母の心情、意見、教法、礼儀は其の子他日の心情、意見、教法、礼儀なり。斯(ここ)に知る、一国の文明は、その母の文明に本づくことを。」(以上、安岡正篤一日一言から)


「一億の人に一億の母あれど、わが母にまさる母なし」(読み人知らず)というすばらしい言葉がありますが、母の愛ほど偉大なものはありません。これを一言で表現するならば「恕」という文字で表されるでありましょう。女の領域の心、すなわち慈悲の心、仏の心であります。しかしながら、中村敬宇が明治初期に「今世の人、口を開けば聊ち文明と曰い、而(しこう)してその本原に昧(くら)し」と嘆いていることから推察させるように、明治以降の日本は、近代化を急ぐあまり「母の愛」すなわち、慈悲の心、仏の心を蔑(ないがし)ろにしてきたように思われます。それ故中村敬宇が「余嘗て謂う、国政は家訓にもとづき、家訓の善悪は則ち、その母にかかわる。母の心情、意見、教法、礼儀は其の子他日の心情、意見、教法、礼儀なり。斯(ここ)に知る、一国の文明は、その母の文明に本づくことを」と喝破したように、今の日本は文明崩壊の危機に直面しているのであります。
安岡先生は、その名著「東洋倫理概論」の中で、母なる女性の本質について、次のような名文を書いておられます。
《造化の対応的原理》
よくよく造化にはその裡(うら)に限りない分化発現(漠然としたものを一つ一つ分析して明確なものに実現すること)の力(陽)と、これに応ずる統一潜蔵(分化したものに再び新しい生命を与えて統一し、奥深く蔵すること)の力(陰)とが働いている。
これによって物あれば心あり、名利を求める半面に隠逸(俗世間から逃れて山水の生活をすること)を尚(とうと)び、理知あって明らかに内外の世界を発見してゆけば、必ず情愛あって天地同根万物一体たらしめる。人もこの理によって男と女とがあり、ここに生々の妙趣を発揮するのである。
《男女の対応的特性》
男は人間における分化発現の作用を本領とし、理知に富み、名利を欲し、社会に生き、万物を明弁し、自己を顕栄にせねば止(や)まない。しかし、それはやがて疲労である。索漠である。競争…嫉妬…排擠(はいせい:おしのけること)である。苦悶懊悩である。無限の宇宙にただ自己の憐れむべき孤影を顧みさせるに止まる。その時、彼を慰める最も親しい者は女性である。
女性は造化の統一潜蔵の力を本分とし、男性的原理によって分化対立してゆく世界をそのままに統一調和して、元の天を保ってゆく。その力は換言すれば、大我に生きんとする本能的努力であり、そこに薫蒸(くんじょう:薫り高く立ちのぼる)するものを、すなわち情愛と言う。
《女性と我欲》
女性の本領はかくの如く大我に生きんとする努力であり、情愛にあるが故に、それは当然女性を無我にし、無欲にするものである。我欲は何が故に醜悪であるか。これすなわち造化の?(けいげ:妨げとなるもの)であり、理想の自殺に外ならぬからである。愛にしてはじめて卑しくせせこましい小我の隔執(かくしつ)を撤して、大いなる天の懐に自他を融合することができる。
考えようによっては人の人に対する豺狼(さいろう:やまいぬとおおかみ)の如し、であるが、しかも一度子の親となっては、
 
 ものいわぬ四方のけだものすらだにも
       あわれなるかなや親の子を思う(実朝)
思えば感涙なきを得ない。いかなる薄情な人間でも、子を養うに吝(やぶさ)かな者はない。随分けちな男も懸想した(恋い慕う、辞書から)女には何かと入れあげる。情愛が深く大きくなるにつれて、富も位も命もまたあえて惜しまなくなるのである。かくして親は子のために、妻は夫のために、臣は君のために、己を忘れる。女は無我であり無欲であるほど純粋である。崇高である。
さればこそ世に母の徳ほど尊く懐しいものはあるまい。母は子を生み、子を育て、子を教え、苦しみを厭わず、与えて報を思わず、子と共に憂え、子と共に喜び、我あるを知らぬ。夫に添うては夫をたて、夫の陰に隠れて己の力を尽くし、夫の成功を以て己みずから満足している。夫や子が世間に出て浮世の荒波と戦っている時、これに不断のなぐさめと奮励とを与える者は母である。夫や子が瞋恚の炎に燃え、人生の不如意を嘆ずる時、静かな諦観(物事の本質を知り、明らかに悟ること)と久遠の平和とに導く者も母である。母は人間における造物主の権化ではないか。誠に母の徳こそは「玄の又玄(玄は奥深いこと、その又奥深いこと)」なるものであって、婦人は根本において必ずよき妻たり母たる人でなければならぬ。婦人にいわゆる娼婦型が著しく増加して、妻らしい婦人、母らしい婦人の段々なくなってゆくことは、確かに忌むべき婦道の堕落である。
《女性と敬と恥》
かく愛は大我に生きんとする努力であり、したがって理想に純なる熱情であるから、それはまたおのずから人をよく敬虔ならしめ、恥を知らしめる。およそ恥は低きもの卑しきものが高きもの尊きものの引接(いんじょう:導き引きつける)に遇うて、思わず自らの中に催す感情であり、敬はその高きもの尊きものに対して発する感情であって、最も美妙な人間特有の作用である。狭陋なる我欲の人間ほどこの両者を欠くわけであるが、愛を本領とする婦人は最もよく恥じらい、敬(つつし)む人でなければならぬ。無知な女、厚顔な女、不真面目な女には百年の恋も一朝にして覚めよう。
以上です。安岡先生がおっしゃるような婦人が今の日本にどれほどおりましょうか…。