本物のぜんざいの作り方

ぜんざいを作るのには砂糖がいる。しかし、砂糖だけでは本当にうまいぜんざいはできない。砂糖の逆の塩がいる。

塩辛いから駄目だと鍋の外に放り出していてはぜんざいはできない

塩を抱き込み、溶かし込んだとき、初めてぜんざいは本物の味になる。

昨日はひょんなことから上の話になった。

もうすぐお正月、お餅が食卓に餅といえばぜんざい…なんて流れでぜんざいトークになったわけではない。

涙を流すほどの真剣試合が満載だった百人一首大会を振り返ったところからこの話になった。

輝かしい結果や成績ばかりでなく、今回は別の角度からスポットを当ててみたい。

悔しくて、こらえきれず涙を流す人生において、そんな場面は一体どのくらいあるだろうか。きっとそれは数えられるくらいしかないだろう。

悔し涙は、その背景に必ずいくつかの事柄が存在する。

一つ目は熱が入っているということだ。

ほどほどの熱量で取り組んでいることからは、そうした涙は生まれない。絶対に勝ちたいと熱いものを内にたぎらせるから強烈な悔しいという感情が生まれるのである。

ついているのかどうかわからないような小さな火はつけばすぐ消える。しかし、ゴーゴーと燃え上がる炎は簡単には消えない。

日々の練習で闘志を燃やし続けてきた子たちの内なる日が、本番の大会でも存分に燃え上がっていた。

二つ目は実力がついてきているということだ。熱を込めた状態で、一定期間練習なり努力なりの道のりを積むと、当然ながら力は増してくる。高まってきた力は自分に対する自信も芽生えさせるだろう。

自信がついてきた者同士、実力伯仲の中でぶつかるからこそ、真剣試合は生まれる。

その戦いは竹刀の稽古試合ではない。切るか切られるかのまさに真剣による戦いである。

習いたての実力不十分の白帯同士で戦っても、こうした試合は決して成立しない。


三つ目は自分の体を通したリアルな体験であることだ。

どれだけ熱を込めていたとしても、テレビゲームで敗れて涙する人はそういないだろう。

いかに全力でドラッグをやったところで、ボスに負けて泣く子はいない。

自分の好きなスポーツチームをテレビで観戦しているときも、そのチームが負けたときに悔し涙を流すことはほぼないに違いない。

それは自分自身の体験ではないから、画面の中のバーチャルな世界であり、自分以外の誰かがプレイした誰かの試合なのである。

勝ったのが自分だから強烈な喜びを感じるので、負けたのが自分だから強烈な悔しさを感じるのだ。

人生においての悔し涙、それはぜんざいにとっての塩なのだと思う。

甘く優しい経験だけでは本物の味わいは出ない。

むしろ、思い出すだけで悔しさがこみ上げるようなほろ苦い経験があることで、人生にはぐっと深みが出るのだと思う。

そして自分の感じる喜びや幸せが一層引き立つのだと思う。

悔し涙でなくとも肩を叩き、励まし合っていたみんなの姿に、私はそんなことを思った。

ジャズシンガーの綾戸千恵さんという方がいる綾戸さんは著書の中で、

大人になるとはどういうことの問いに、次のように答えている。

いろんな種類の涙を知ること、そして少しずつ優しくなること。

百人一首大会で流した悔し涙は君たちをまた大人に近づけたに違いない。