こんにちわ。
心理カウンセラーの心の欧米家です。
今朝台所で旦那の食事(メキシコ人夫は、毎朝本当に欠かさずタコスを食べます。タコスって日本人の味噌汁みたいなもんなんですね)を作りながら、ちょっと前までは朝食を作るだけでプリプリしていた自分を思い出しました。
私は愛=犠牲だと思っていたので、どれだけ相手のために尽くしてあげられるか、どれだけ相手のためにやりたくないことでもやってあげられるか、が愛情表現だと思ってたし、愛情の測り方だと思ってました。
なので、食事を作ってあげる、掃除をしてあげる、洗濯してあげる、外で働いて家のためにお金を稼いできてあげる・・・私が独身時代もやってた全ての行為が「旦那のために」になってたし、いつも自分がどれだけやってあげてるかを相手にアピールし、そして相手の行動量と自分の行動量を比べては、「私はこんなにしてるのに、あなたはこれだけしかしてくれない!!」と、相手の愛情が足りないことに怒ってました。
(ちなみに旦那はど後者な上に超絶要領が悪く、オムレツ作るのに2時間かかる人。私は前者で要領や段取り命の人なので、私と旦那では同じ時間で出来る量がそもそも全然違う)
いつも旦那が家事を手伝ってくれない(愛をくれない)と私は怒り、でも旦那は「僕だってゴミ出しもするし、洗濯物も片付けるし、キッチンも綺麗にするし、買い物も行くし、僕なりにちゃんと家のことはやってる」と言い、いつも着地点のない平行線の喧嘩でした。
でも、いつの間にか愛=犠牲(時間、能力、お金、なんでも良いから何かを犠牲にしてそれらを愛する人のために差し出す行為が私の中での犠牲の定義。書いてるだけで怖いwww)が愛を測る物差しじゃないと気付いて、すごく楽になりました。
今でも家事の分担は同じだし、お互いがやる家事の量も変わっていません。
(7:3で私が多い)
でも、めでたいことに、状況は変わらないのにそれで揉めたりはしないし、私もそれでプンプン怒ったりしません。
同じ家事をするにも、以前は「相手のために」の気持ちが大きかったのですが(掃除するにも「綺麗な部屋の方が気持ちが良いでしょ?あなたのために掃除したのよ?あなた掃除が苦手でしょ?だから私もやりたいわけじゃないけど掃除したの。あなたのためよ?」という気持ち。押し付け具合が半端ない!!!w 恐ろしやー!!!www)今は「私が」掃除すると気持ち良いから、「私が」したいと思ったからやっているので、結果掃除するという行為は同じなのですが、気持ちが全然違います。(基本、もともと家事は嫌いじゃないので。綺麗になった後の気持ち良さが快感でやってる)
ほんのちょっと前までの自分ですが、それを今朝旦那のタコスを作りながらふと思い出しました。
(その頃は心が荒れすぎててブログなんて書く余裕なかった)
そしてね、不思議なことに旦那の家事をやってくれてるかどうか見張らなくなったら、今までは何日も畳んだ洗濯物を戻してくれなかったのが、今では畳んだらすぐにクローゼットに戻してくれる様になりました。
やっぱり自分が変わると周りも変わるんですね。
ということで、今日も心穏やかにタコスでスタートです!
ブログの転載、リブログ大歓迎です