13日、甘樫丘(あまかしのおか・うまかしのおか。奈良県明日香村)のふもとで7世紀の建物群跡や焼けた土などが見つかった。
 飛鳥時代の権力者・蘇我入鹿(そがのいるか)邸「谷の宮門(たにのみかど)」の跡の可能性が高いという。


『日本書紀』によれば、入鹿邸を「谷の宮門」、蝦夷(えみし。入鹿の父)邸を「上の宮門」、子供たちを「王子」と呼ばせていたという。
 このことは蘇我氏の横暴を示すものというより、入鹿あるいは蝦夷が天皇として即位していたと考えるほうが自然ではないであろうか?
 その考えると『天皇記』『国記』を焼いたのも、実は蝦夷ではなく、中大兄皇子ということになる。

 大化の改新近辺の『日本書紀』の記述には、多くのナゾがある。
 山背王兄王は、なぜ無抵抗に殺されたのか?
 中大兄皇子らは、なぜ入鹿を殺さなければなかったのか?
 古人大兄皇子は、なぜ「韓人が入鹿を殺した」と言ったのか?

 詳細はいつか「歴史チップス」にて。