近畿地方の考古学の問題点を最近は述べており、この点を一つの例で示しておく。

 

  重要な視点であるが、四世紀以降の北九州勢力の倭国は日本列島の四国地方や中国地方東部、近畿地方に本格的に進出してきたことは墳墓の変遷や銅鏡の変遷、土器の出土例などの考古学的成果で論証できるのであるが、この点は、実は馬の放牧と生産の変遷からも言えるのだ。

 馬の放牧や生産というのは最初では四世紀以降に九州南部の熊本県や宮崎県、鹿児島県で始まり、その後の五世紀頃には現在の近畿地方の河内地域(旧河内国)で馬の放牧と生産されてきており、続いて信州の安曇野地域などにて行われるようになる。ですから、五世紀頃よりの兵庫県や河内の古墳群には馬の埴輪が大量に現れてくるのだ。そして、このような馬の放牧と生産の変遷は、実は倭国の日本列島各地への進出の過程を良く物語るものだからである。

 ですから、実は、河内地方の百舌鳥古墳群、大仙山古墳(仁徳天皇陵墓ともされる)などは馬の放牧と生産で豊かになって多くの支配者階級や権力者が現れて生まれた可能性が高いのだ。悪く言うと大仙山古墳などは馬喰の親玉の墓かもしれないのだ。大和王権とは関係などなさそうなのだ。 いずれにしても、近畿地方の考古学者は近畿地方の大型の前方後円墳などを大和王権のものとしているが問題も多いのだ。