先に、NO43で、日本考古学がまともでない世界であることを論じた。その要旨であるが、戦前、戦後の考古学で問題だったのは、科学的な学問であるべきと戦後には唱えられていたのですが、古墳時代以降というのは、実は、日本の考古学というのは戦後に入っても「皇国史観」に強く影響を受けてしまっていて問題が多くあったのですが、それが現代に至っていることである。具体的には、日本の考古学が提示する遺物や古墳などの年代というのは『記紀』を基に決まっている。

 

 この例を、 金錯銘を有する鉄剣( 稲荷山古墳出土鉄剣 )が出土した埼玉県の稲荷山古墳の例で述べておく。

 稲荷山の築造年代であるが、ネットのウィキペディア(Wikipedia)で見ればすぐに分かるように、考古学者の定義として5世紀末の築造であり埼玉古墳群としては最初に築造された古墳としていると記述されている。

 このような日本考古学の稲荷山古墳の年代定義が生まれた背景であるが、稲荷山古墳で発見された金錯銘を有する鉄剣( 稲荷山古墳出土鉄剣 )が大いに関係していた。鉄剣の銘文の中で「治天下獲□□□鹵大王」 と読み取れ文章があると文献学者が述べて、文献学者から、この文は『記紀』の「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)」にあてる説が出てきて、これが有力となっていった。そのため、銘文中には「辛亥の年7月中に記す・・・」という文章があるのだが、この辛亥の年は雄略天皇の時代であるから471年と考えられるとした。 その結果、この471年が根拠となって、稲荷山の築造年代は5世紀末という定義が考古学で生まれたのだ。

 そして、この稲荷山古墳からは鉄剣以外にも須恵器が発見されているのであるが、この須恵器の土器編年にしても、TK23・TK47などと呼ばれ、実は五世紀半ばから五世紀末のものと判定されているのだ。

 このように、鉄剣( 稲荷山古墳出土鉄剣 )の銘文「治天下獲□□□鹵大王」 を『記紀』を基に文献学者が確証もないのに「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)」であるとしたことから、現在までの考古学者は、何の疑問も起こさず反対もせず、鉄剣と稲荷山古墳、須恵器の年代を五世紀末としたのだ。

 ところが、須恵器が初めて使われだしたのは近畿地方で、そして、五世紀末であるという定説が従来ではあり、遠い関東平野で須恵器がまともに使われだすのは六世紀半ば以降であるとされてもいたのに、このような土器編年なども、全く無視して、『記紀』を基に稲荷山古墳も鉄剣も出土した須恵器も五世紀末などとなってしまっているのだ。

 鉄剣の銘文にある「辛亥の年7月」が471年ではなく、もしかしたら531年7月であるかもしれないなどという事を考古学者は遺物から検討して論議もせずにである。また、考古学の立場からすれば、須恵器は六世紀半ばに関東で使われだしたとすれば、鉄剣の銘文「辛亥の年」が471年が万一正しいとしても、稲荷山古墳と須恵器の制作年代は、6世紀以降である可能性の方が高いのだが、このようにも考古学は全く考えもしないで、現在に至る。

 

 ですから、現在までの日本の考古学がいかに信憑性には乏しい物語である『記紀』に侵されているかが判るし、現在までの考古学が前近代的なものであるかが判るのだ。少し権威のある『記紀』文献学者の一人が、鉄剣( 稲荷山古墳出土鉄剣 )の銘文「治天下獲□□□鹵大王」 を『記紀』を基に文献学者が確証もないのに「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)」であるとしただけで、日本の考古学は鉄剣と稲荷古墳と稲荷山古墳から出土した須恵器をなんの疑問も抱かず5世紀末とした。こんなものが科学的な学問とは言えないと思うが。いずれにしても、日本の古代史学は、科学的な学問では無いのではないだろうか。

 

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