世界中の現在の新聞やテレビなどのメディア、そして、人々が、意外と意識もせずに左派系の政治家や評論家、学者を「進歩」とか「リベラル」の論客、人間だとかいう言葉で述べることが多い。しかし、この「進歩」や「リベラル」を左派系的な人間に使うのは問題なのだ。

 

 歴史をやっているとよくわかるのだが、思想や宗教というものは常に時代性を持っていて、19世紀に生まれたともいえる社会主義や共産主義という思想は戦後に大きな役割をしたのであるが、現在では、これら思想は役目をかなり終えており、過去の遺物的思想でもある。端的に言えば、19世紀に生まれたともいえる社会主義や共産主義という思想は、現在では、ほぼ、全て独裁的な思想へと変貌したといっても過言ではなく、過去に逆戻りしたようなもので、王朝思想と何ら変わらない。

  ところが、現在でも世界中の新聞やテレビなどのメディア、そして、人々が、意外と意識もせずに社会主義や共産主義を掲げる人間を「リベラル」の象徴で、「進歩」の象徴として左派などと呼んで、気にしてもいない。しかし、現在の世の中というのは、もう、社会主義や共産主義という思想を持つという政治家や学者などを「進歩」だとか「リベラル」だとかと呼ぶ時代ではないし、左派などと呼ぶ時代でもない。

 

  よい例が、現在の中国の動きで、現在の中国というのは社会主義や共産主義という思想を悪用した独裁国家で覇権主義的な王朝国家のようなものであり、中国は「進歩」とか「リベラル」などと言える代物ではないのは理解されるはずだ。

 それから、現在の韓国であるが、文大統領が左派の大統領と言われるが、そして、「共に民主党」も左派と言われるが、これも独裁主義的な大統領や政党で、何ら、本質は「リベラル」でも「進歩」でもないもので、従来の軍事政権と本質は同じで退潮した世界である。キュウバや 南アメリカのべネゼイラなども同様である。

  

  要するに、社会主義や共産主義という思想で、ある程度、社会がよくなると、これら思想も主義も「人間も動物である」という人間の永遠のテーマを抱えており、端的に言えば、「生物の生存競争」という世界から逃れることができず、すぐに、本質から離れて陳腐化する。これら主義、思想は、根底に「生物の生存競争」ということが隠れているからである。

 

  19世紀に生まれたともいえる社会主義や共産主義という思想、また、自由主義や民主主義によって、地球上の人類は19世紀以降には機械文明の効果も重なって、下記のように、爆発的に増えた。

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  ところが、19世紀に生まれたともいえる社会主義や共産主義という思想、また、自由主義や民主主義によって繁栄を遂げてきた戦後の、多くの国は、停滞してきて、基本的に人口が減少していくという事実がある。

 この要因は様々なことがあるのだが、要因の一つは「人間同士の生存競争」が終わってくると皆が個人的な快楽に向かう(動物としての自己中心主義、独善的な個人主義と自由主義)からでもある。

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 すなわち、逆説的には、19世紀に生まれたともいえる社会主義や共産主義という思想、また、自由主義や民主主義にしても、人間が動物であるという問題を常に抱えているなかで、「人間は考える葦である」という他の生物とやや異なる資質を持っていることを物語るもので、空想の世界(理想主義)とも言え、全ての主義、思想は永遠ではないということであるし、また、多少、程度の良い宗教のようなものともいえる。

 

 つまらないことを述べてしまったが、いずれにしても、19世紀に生まれたともいえる社会主義や共産主義は、進んでいくと、結局は独裁主義、王朝社会というものに回帰しており、「進歩」や「リベラル」などど進んだ社会では述べてはいけない。