全国御朱印巡り日記

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歴史探訪と御朱印、全国のお城・お祭り巡りです。

長野県【眞田神社】2026年9月20日

 

 

「眞田神社」の歴史

明治維新の変革の中、廃藩置県により上田藩も廃されます。

国に接収された上田城も間もなく民間へ払い下げとなりました。

そして城跡は、急速に桑園・麦畑などに姿を変えていったのです。

 

そのような情勢の中で、旧上田藩士や旧領内有志により、旧藩主松平氏への報恩のため、

初代忠山公、二代忠昭公、三代忠周公(上田入封初代)の御霊璽をあわせてお祀りする神社を、

上田城跡に建立したいとの声が起こりました。

この動きは、上田城に拠って二度にわたる徳川の大軍の攻撃を退けたという、

真田氏の活躍などで名高い上田城跡を、史跡として後世にまで伝えたい、

という願いがあってのことでもありました。

 

そして、上田城本丸跡の所有者となっていた丸山平八郎氏の篤志により、

その南半分の地が境内用地として寄附され、松平神社創立願が

長野県より許可されたのは、明治十二年(1879年)のことでした。

その後、本丸の残りの地も、やはり丸山平八郎氏から松平神社付属の

公園用地として寄附され、上田の人々の憩いの場として

本丸全域が整備されることになったのです。

 

歴代上田城主を合祀

真田氏は上田市の象徴でもある上田城を築き、その武略によって上田城の名を高からしめました。

仙石氏はその後をうけて上田藩政を発展されるとともに、関ケ原合戦後破却されていた

上田城の復興にもあたりました。

 

これら先代の城主も合わせてお祀りすることが、上田城跡守護の神社として、

また、新時代の神社として望ましいのではないか、という声が先の大戦後に起こりました。

そして、昭和二十八年(1953年)に真田氏と仙石氏、そして松平氏の歴代全城主を合祀して、

松平神社から上田神社と改称致しました。

しかし、かつて市内にあった同名他社と紛らわしいこともあり、

初代城主である真田氏の名を冠して、昭和三十八年に眞田神社と

再度改称し今日に至っているものです。

 

2026年9月20日日曜日。 

【上田城跡公園動画】

【上田城跡公園動画№2】

 

【眞田神社】

所在地:〒386-0026 長野県上田市二の丸1−12

電話番号:0268-22-7302

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長野県【上田城跡公園】2026年9月20日

 

 

【上田城跡公園】内に【眞田神社】があるのだが、

御城印や城跡があるので、敢えてブログを分けました。

「真田氏の築城から江戸時代までの上田城」                                                    真田昌幸が上田城を築き始めたのは、天正11年(1583)のことです。                                           当時は、更埴地方までが越後の上杉景勝、佐久郡までが関東の徳川家康の勢力下でした。                                  当時、家康に臣属していた昌幸は、家康の援助を受けて上田城の築城を始めます。
しかし、豊臣秀吉に対して背後の守りを固めるため 小田原の北条氏直と                                                     手を組もうとする徳川家康から上州沼田領を北条方に譲るように命じられた昌幸は、これを拒絶します。                                                                                                                          

これにより、徳川と断交した昌幸は、徳川軍の攻撃に備え、                                             次男・幸村を上杉方に人質として差し出し、                                                       上杉景勝に築城とその他の援助を求めます。
そして、天正13年(1585)8月に徳川軍が7,000人余の大軍で、上田城を攻撃します。                              しかし昌幸は巧みな戦略を用いて、わずか2,000人足らずでこれを撃退します。                                     この第一次上田合戦に際しては、上田城の普請が上杉方の多くの武将を動員して行われています。                           そして、天正13年の9月に、上田城は一応の完成をみます。                                               このように築城の過程で昌幸が臣属先を変えたため、徳川からも上杉からも援助を受け、                                上田城はわずか2年半程で完成しました。

この後は、豊臣秀吉が天下を統一し、しばらく動乱は治まりますが、                                慶長5年(1600)に関ケ原の戦いが起こります。秀吉没後の覇権を、                                      徳川家康と石田三成が争ったこの戦いで、昌幸と次男の幸村は石田方に、                                     長男の信之は徳川方に別れて戦うことになります。
石田方についた昌幸と幸村は、上田城に立てこもり、                                                      東山道を西上する徳川秀忠軍3万8000人に対して、                                                  わずか2500人で籠城(ろうじょう)戦を行います。
                                                                     この第二次上田合戦では、徳川秀忠軍は、7日間上田に釘(くぎ)づけとなり、                                     関ケ原での石田三成との決戦に間に合わず、家康の激怒をかっています。                                         しかし関ケ原の戦いは、石田方の敗北に終わり、                                                 昌幸と幸村は、九度山(和歌山県)に幽閉されます。
そして、徳川方に接収された上田城は一度破壊されます。                                               堀を埋めて、塀を壊し、櫓(やぐら)などの建物はいうまでもなく壊され、廃城となりました。                               

                                                                       その後、上田領を家康から与えられた長男の信之が引き継ぐことになります。

信之は廃城となった城の中心部を避けて、現在の上田高校の位置に                                       屋敷をかまえて藩政を行います。                                                         この屋敷は、後に上田藩主となる仙石氏、松平氏も引き続き藩主邸とします。                                           上田城が戦いのために存在したのは、関ケ原まででした。
                                                                      こうして、まったくの廃城となっていた上田城ですが、元和8年(1622)に幕命により、                                 真田信之が松代へ領地替えとなり、仙石忠政が小諸から新領主として上田に入ります。
そして、幕府の許可を得て、寛永3年(1626)より上田城の復興に取り掛かります。                              忠政は、埋め立てられていた堀を再び堀り上げ、石垣を積み、櫓を再建します。                                 そして、本丸の土居(土塁)や石垣の上に櫓と塀ができて、                                          明治維新まで続く上田城の姿が復興されます。                                         その後、宝永3年(1706)に上田城主は、仙石氏から松平氏へと交代し、                                    明治維新までの160年余の間、松平氏が治めます。

 

2026年9月20日日曜日。 

【上田城跡公園動画】

【上田城跡公園動画№2】

 

【上田城跡公園】

所在地:長野県上田市二の丸6263番地イ

電話番号:0268-22-1274(上田市立博物館)

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新潟県【高田城址公園】2026年9月20日

 

 

高田城址公園は、徳川家康の六男、松平忠輝公の居城として

築城された高田城の跡に造られた公園で、全体が新潟県の

史跡に指定されています。

現在の公園の地形は、旧陸軍第十三師団が入城する際、

明治40年(1907年)に土塁の大半を崩して堀を埋める工事が

行われたことによって出来たものとされています。

公園の面積は約50ヘクタールあり、市街地の中心部に

位置する公園としては、全国的にも有数の規模を誇っています。

 

高田城址公園のハスは戊辰戦争や凶作により貧窮した

高田藩の財政を立て直すため、外堀にハスを植え

レンコンを育てたことがはじまりです。

外堀19ヘクタールを埋め尽くすハスは、

美しさ、規模ともに東洋一とうたわれています。

見ごろは7月下旬から8月中旬。

 

高田城三重櫓は、本丸南西隅の土塁上に構築され、当時は「後三階櫓」と

呼ばれて天守閣にかわる城の象徴になっていましたが、廃城後、

明治19年(1886年)頃取り壊されました。

平成5年に復元されたこの三重櫓は、資料調査と発掘調査の成果を

十分にふまえて再建されたものです。

内容は三層三階で、東西5間(約9.1メートル)、南北6間(約10.9メートル)を基底とし、

高さ15メートル程で外観は御殿風造りを基調としています。

屋根は1層・3層が入母屋、2層が寄棟形式で、1層・3層に

切妻屋根の出張りを付けています。

1階・2階は展示室で、3階は展望室になっています。

櫓の東側に付随して50メートル程の塀も同時に再建されました。

 

2026年9月20日日曜日。 

【高田城址公園動画】

【高田城址公園動画№2】

 

【高田城址公園】

所在地:新潟県上越市本城町44-1

電話番号:025-524-3120(上越市立歴史博物館)

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