野田秀樹インタビュー④_日経新聞夕刊「人間発見 劇作家・演出家 野田秀樹④」
テーマ:演劇日経新聞夕刊インタビュー記事「人間発見」、1月4日より野田秀樹氏が登場です。記事を全文引用させていただきました。聞き手は、内田洋一氏です。
夕刊「人間発見‐演劇の力を信じて‐劇作家・演出家野田秀樹④」 2010年1月7日(木)掲載分より引用
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■東大で法学部に進むが、勉強はそっちのけ。自宅を飛び出し、キャンパス近くのカレー屋の2階に下宿した。隣の2畳間が劇団事務所に。6年で中退する。劇作家、演出家、俳優を兼ね、言葉遊びを駆使した演劇で評論家をあぜんとさせる。人気が沸騰し、「新人類の旗手」といわれた。
―20代前半は4畳半のこたつで思いついた言葉遊びを紙に書き散らし、夜中に駒場小劇場に行って1人で芝居を考えていました。公演が終わると翌日から皆で劇場に集まり、けいこや議論をする。その日々は僕の演劇の原点になります。東京芸術劇場の芸術監督や多摩美術大の教授を引き受けたのも、創造的な現場を何らかの形で取り戻したいからです。
キャンディーズを解散したあと、伊藤蘭さんがうちの芝居に出たいと言ってきた。「快盗乱魔」という芝居で釜の中から出てくるという場面がありました。「かいとうらんま」と平仮名で書くと「かま」の中に「いとうらん」が偶然入っていた。そういう言葉遊びが次々と生まれて、戯曲を書くにも手が追いつかないくらいでした。
■観客が急増し、企業協賛もつく。劇団結成10周年の1986年には国立代々木競技場第一体育館で1日に2万6千人を動員、東宝の商業演劇に演出家として招かれる。だが人気の絶頂を迎えながら、心の中はさめていた。
―劇団をつくって6、7年で人気が出て、経済的なバブルが始まった。日本の社会は文化を消費しちゃえ、という方向になっていった。その真っ只中で、劇団はおそらく徹底的に消費されていった。30歳になるころから、そのことを如実に感じていました。人間が動くこと、そのときの人間の精神はどうなっているか。そうしたことを探求することが本来の劇団の目的だったはずです。ところが本番が終わると翌日からはけいこをしなくなる。俳優は有名になりたいという意識ばかりが強くなる。
代々木で上演した「石舞台星七変化」の3部作は電通からもちこまれたイベントでした。あの大会場ではいい芝居ができない。反対しましたが、当時の制作の独走でやらざるを得なかった。劇団を思って眠れなくなり、ストレスで十二指腸かいようにもなった。
主義主張でなく、体を動かす芝居を心がけていたから、事故や体の変調にも見舞われました。暗転の間にスタッフと衝突して鼻を骨折したり、舞台ではしごから転落して腎臓が破れたりしました。89年にはトレーニングセンターでカメラのシャッターがおりたように右目が真っ暗になった。
目に通じる血管が詰まる病気です。病院で応急処置をしましたが、失明した。最初は片目で動くのが怖かった。でも今まで舞台で跳ぶとき足元を見ていたか。いや見ていなかった、と気づいて、元通りに動けるようになった。俳優をやめる気はありませんでした。
■87年夏、英国エディンバラ芸術祭に招かれた。DJの小林克也さんを通訳代わりに入れたが、日本語の言葉遊びが通じない。反響は上々だったが、課題も見出す。1公演で7万人の動員を誇った劇団を92年秋、解散する。
―岸田国士戯曲賞受賞作「野獣降臨(のけものきたりて)」を上演したのですが、台詞を間違えても海外の観客は気づかない。あるとき、ふっと頭がさめ、一体オレは何をやっているんだろうと思ったんです。海外で熱い拍手でたたえられているけどここで今やっていることは本当に文化交流の大きな波になっていくのだろうか。
それこそ何十回も劇団をやめることを考えました。記者会見では、劇団が有名無実化し、そのつど俳優を集めるプロデュース公演と大差なくなっていたことを挙げました。ミーハーの教祖とか若者たちの神々とか、いろいろなことを言われ、いつのまにか野田秀樹という虚名が独り歩きしはじめていた。夢の遊民社のスタイルをこのまま続けていくことが嫌になった。バブルに向かう好景気を利用したのは事実ですが、劇団もバブルになった。僕なりの清算の仕方でした。(聞き手は編集委員 内田洋一)