中高時代、年に3~4人くらいは留学する同級生がいて、

母に報告する度に、貴女も行けばいいのに~と、

渋谷か原宿にでも行くみたいなのりで、人の背中を押そうとする母だった。

でも当時私は、洋画、特にフランス映画が大好きで、

コートダジュールだの、地中海だの、

どんな場所だろかと夢想しながらも、

実際に行ってみたいとは全く思っていなかった。

何故なら、現実にその地をみてしまうと妄想の妨げになるからだ。

それから、本に関しては洋ものより日本文学が断然好きで、

言葉ひとつひとつにこだわりをもって日常を送っていたので、

(つまり、凄く理屈っぽくてめんどくさい奴だった)

日本語以外の国(場所)で生活するなんて言語道断だったのだ。

 

そんな私が、大学を卒業した年の半年近くを海外で過ごすことになったのは、

やはり母にグイグイ背中を押されたからだった。

当時兄が海外にいたので、

おにいさまのとこに遊びに行ってらっしゃいよ、と。

結婚したらこんな旅行できないわよ(私が結婚すると信じて疑わなかった母。実際したけど)、と。

しまいには、

おにいさまがいるから安心して出せるのよ、と、

まるで、行きたがってる娘を応援する母、みたいな恩着せがましい物言いだ。

母は、自分の子供が英語を流ちょうに操ることに強い憧れがあった。

そして、半年くらい外国に出せばペラペラになって帰ってくるのでは、と淡い期待を抱いていた。

そんな簡単なハナシなら誰も苦労しない。

しかも兄が住んでいたのはスペインなので、勘違いも甚だしい母だった。

 

あの頃の私には、大学在学中から嵌っていた演劇集団があり、

一時的にせよ、そこから離れるのは嫌だったのだが、

大学卒業後特に就職するでもなく、なんの縛りもなかったので、

渋々行ってみることにした。

それに、どんなに渋々出かけようとも、

行けば必ず「よかった」と思うのは、わかっていた。

経験とはそういうものだと、容易に想像ついた。

 

しかし、母に背中を押されるままなんのプランも持たず渋々出かけただけあって、

イギリスは、北アイルランドを除くほぼ全土、

スペインは、ビルバオを除くほぼ全土を、

他には、ギリシャやブリュッセルやパリ等にも、

電車や飛行機や車で旅行してまわったにも関わらず、

滞在中に、はっきり何かに覚醒することはなかった。

それは帰国後も同じで、

この数ヶ月についてあ~だったこ~だったと、

目をキラキラさせながら両親に報告する、

なんてことは一切無かった。

それは別に反抗心でも照れでもなく、語るべき言葉が何もなかったからに過ぎない。

行って良かったとも悪かったともな~んも言わない娘に、

母は、どんなにがっかりしたことだろう。

がっかりしたのは、母だけではない。

実は他の誰でもない私自身も、情けなく虚しい気分の、あれは22の冬。

人間てやっぱりちょっとやそっとじゃ変わらないよな、

それにしてもアタシっていったい・・・と。

 

ところが

 

あの時、見たこと、聞いたこと、やったこと、全てが、

自分の中をさら~っと素通りしてしまったと虚しい気でいたけど、

どうやらそれらは、意識の奥深~くに沈みこんでいたらしくて、

時間をかけて、私の細胞の隅々にゆっくり染み渡り、

いつのまにか、私の血となり肉となっていた。

とは言っても、

今の仕事はあの経験があったからこそ!

みたいな明確な証はないのだが

世の中や人生を見る目を変えたのは確実だった。

それは、自分以外の誰にもわらない変化ではあったが、

だからこそそれに気づいてからずっと、

母に何か言わなければと思いながら何十年も過ぎた。

そしたらある時、母が珍しく寝込んだものだから、

ただの風邪だったにも関わらず、私はあわてて、

ママに感謝してることがあるの、

前から一度ちゃんと言っておかなければと思ってたんだけど、

と切り出した。

ママが無理矢理私をヨーロッパへ押し出してくれたあの数ヶ月の経験が、

後々の私の人生をどれほど豊かにしてくれたことか、

言いながら、思いがどんどん溢れて声を詰まらせた。

母は、ビックリしながらも笑顔で嬉しそうに聞いていた。

 

それなのに、嗚呼それなのに

 

それから何年か後に骨粗鬆症で再び寝込んだ母に、

ずっと前風邪で寝込んだ時には慌てちゃったけど、

その勢いで、あの時ちゃんと感謝の気持ちを伝えることができて、

私も凄く嬉しかったのよね~、としみじみ言うと、

「え?そんなこと言ってたっけ?」

 

 

 

まあ、いいけど