あの日から1年がたったなんて考えられないくらい、時の流れは早いです。
でも、あの1年前のことは、今でも鮮明に憶えてる。
一瞬一瞬の気持ちとか、その時の周りの景色とか、においとか、そういう感覚的なものが余計に。
今週の月曜日、成人の日、一周忌法要でした。
おばあちゃんのことを、いっぱいいっぱい想いました。
今でも、おばあちゃんとのことを思い出すと、涙が止まらなくなる。
だけど、1年たった今、やっといろんなことを気持ちとして、整理できそうな気がする。
物心ついた頃から、おばあちゃんはずっと、私のそばにいてくれました。
お父さんとお母さんが共働きだったけど、おばあちゃんがいたから、寂しい思いなんてしたことなかった。
小学校の時、学校から帰ってくると、必ず家にいてくれた。
ただいま!って家に着いて、おばあちゃんが見当たらないと、家の中じゅう探して歩いた。
奥のトイレにいたらホッとした。
軒下で草むしりをしてたり、離れの裏でお花の手入れをしていたり。
そんなおばあちゃんの背中を見て、安心した。
隣りに座って、一緒に草むしりをしたこともあった。
玄関のかぎが閉まっていると、倉庫の自転車を見た。
おばあちゃんの自転車がないと、畑にいるんだなって思って。
ランドセルを置いて、私も、近くの畑にひとっ走りしたな。
でも、たいがいは、私が学校から帰ってくる時間までには、家にいてくれて、おかえりって迎えてくれた。
それが当たり前だったけど、大きくなって、すごくありがたいことなんだと思った。
お母さんがお仕事で忙しくて、授業参観に来られない時も、代わりにおばあちゃんが来てくれた。
いつも笑顔で、後ろに立っていてくれた。
学校で、体調が悪くなった時も、いつもおばあちゃんが車で迎えに来てくれた。
車を運転できるおばあちゃんを、私は、スーパーおばあちゃんだと思っていた。
すごく、かっこよかった。
朝、忘れ物して、上履きとか、いろんなものも届けてもらったな。
車でいろんなところにも連れて行ってもらった。
小学校の夏休みの定番は、お兄ちゃんと私を、軽トラの助手席に乗せて、市民公園。
お弁当とか、持っていったこともあったかな。
おっきな、くねんってカーブしたすべり台も、ローラーすべり台も、大好きだった。
楽しかった。
おばあちゃんは、ベンチに座って、私たち兄弟を見ててくれた。
それから、市内のスーパーにも、ほんとによく行ったな。
今みたいに、大型ショッピングセンターなんてまだないから、あの頃は、あのお店が遊び場だった。
3階の、ナムコのゲームコーナーが楽しかった。
おばあちゃんが、お駄賃をくれて、UFOキャッチャーしたり、コインゲームしたり。
狭いゲームコーナーだったけど、100円もらって遊ぶのが、すごく楽しかった。
そして、1階に下りて、マックか、スガキヤでお昼ごはん食べた。
私は、だいたい、肉入りラーメン食べてたな。
最近、めっきり、スガキヤ食べてないな。
トンコツスープがたまんなく美味しかった、食べたくなってきたよ。
習い事のお迎えも、毎回来てくれた。
ピアノ。
今考えると、家から本当に近い。
歩いて5分もかかんないような場所なのに、いつも送っていって、終わる時間になると、教室まで迎えに来てくれた。
帰りは、手をつないで家まで帰ってた。
歌を、一緒に歌ったりしてた。
うれしかった。
そろばんの時も、そうだったな。
あの急な階段を、一緒に上った。
記憶がすごく曖昧なのに、なんだか感覚だけが無性に体が憶えてる。
少し大きくなって、自分の部屋がほしくなった。
2階の、おばあちゃんが寝ていたお部屋を綺麗にして、私とお兄ちゃんの部屋ができた。
おばあちゃんのベッドの横に、私のベッドを並んで置いた。
寝ていると、いつも隣りにおばあちゃんの姿が見えたから、すごくほっとした。
夜、部屋で勉強をしていて、少し眠くなったから、寝ているおばあちゃんに、何時になったら起こしてって頼んで、よく起こしてもらっていた。
だいたい、その時間には起きられなかったな。
そのまま朝まで寝てしまって、パって目が覚めて、課題が終わってなくて、焦ってわーーーってなって、おばあちゃんに、なんで起こしてくれんかったのって怒った。
でも、おばあちゃんは毎回起こしてくれてたんだよね。
起きなかったのは、私のせいなのに、いつもおばあちゃんのせいにしてた。
それに、こんなことも言ってくれてた。
あまりにもよく寝とるから、起こすのかわいそうやったって。
10歳くらいから、大学卒業するまで、ずっとおばあちゃんと一緒の部屋で寝ていた。
おばあちゃんの寝息とか、温かさ、今でも憶えてる。
たまに、おばあちゃんの布団に入って一緒に寝たりもしたな。
すごくあたたかくて、手握って、しわくちゃだけど、すごく安心して、すぐ寝られた。
幸せだった。
小さい頃、胃腸が弱くて、夜中によく気持ち悪くなった。
そのたびに、いつもおばあちゃんを起こした。
一緒に下に下りてくれて、寒い冬も、ずっとトイレで待っていてくれた。
気持ち悪いって、はあはあ言ってる私の背中をずっとさすってくれてた。
熱ある時も、コップに水をくんできてくれて飲ませてくれたり、数時間おきに、体調きづかってくれた。
普段も、布団をかけ直してくれたり、思い出したらきりがないくらい、いっぱいいっぱいかわいがってもらいました。
大学になって、私が車に乗れるようになって、車に乗るのが大好きなおばあちゃんを、いろいろな所に連れていってあげました。
ちっちゃい頃のお返しではないけどね。
2人でランチによく行ったなーって。
定食を食べに行ったり、れんこん食べに行ったり、天ぷら食べに行ったり。
大学にも乗せていった時もあったかな。
考えたくないけど、やっぱりいつかお別れがくるってわかってたから。
大学の頃は、できるだけいっぱいおばあちゃんと過ごしたいって思ってた。
足腰も弱くなって、あまり長い距離は歩けなくもなってた。
就職で、東京に行くってなった時に、お父さんにもお母さんにも、おばあちゃんのことは言われてた。
遠くにいたら、もし何かあった時に、すぐには帰って来られないよって。
だから、気持ちの上ではわかっていたつもりではいた。
だけど、私の知ってる元気なおばあちゃんがいなくなるなんて、現実では考えられなかった。
社会人1年目、2年目は、いっぱい実家に帰った。
ホームシックもあったし、仕事もいっぱいつらかったし、一人暮らしも、環境にも、やっぱりなかなか慣れない時期はツラかった。
おばあちゃんにいっぱい会っておきたいっていう気持ちも、やっぱりすごく大きくて、帰れる時はいっぱい帰った。
おばあちゃんも含めて家族で、いろんなところに出かけた。
京都へのドライブが、1番多かったかな。
おばあちゃん、車に乗るのが大好きだったから。
車いすを借りて、太秦映画村に行ったり、嵐山の渡月橋に行ったり。
2年、3年前かな。
毎回、私が東京に帰る時に、駅まで送ってくれた。
歩けないから、車から降りることはできなかったけど、私が車から降りる時に、いつも、目を押さえて泣いてた。
その時は、なんで泣いとるのーって笑って言ってたけど、私も、胸が締め付けられるような思いだったよ。
東京に行くことは自分で決めたことだけど、いざ行ったら、やっぱりつらいこともたくさんあったし、おばあちゃんと離れるのも寂しかった。
実家に帰って、東京に戻る時に、いちいち別れ惜しかった。
きっと、わたしも、おばあちゃんと同じ気持ちだったんだと思う。
わたしの今住んでいるマンションにも、2回くらい来てくれた。
お父さんの運転する車で、長い時間をかけて、会いに来てくれた。
私のベッドで、2人で一緒に寝た。
その時に、初めて、ディズニーランドにも行きました。
すごく楽しそうなおばあちゃんを見て、私が幸せになりました。
おととし2011年の大晦日、私は、朝仕事が終わって、そのまま大阪へ行きました。
関ジャニ∞のカウコン。
1日、年が明けて、2日から仕事だったので、そのまま東京に帰る予定だったのですが、お母さんから、寄れたら寄ってと言われたので、途中下車して、実家へ。
大阪で、電話を受けた時は、詳しくは教えてもらってなかった。
でも、なんとなく、察しはついた。
駅を降りて、そのまま、おばあちゃんが入院している病院に向かった。
前日、おおみそかに、救急車で病院に運ばれたことを、その時知った。
おばちゃんたちや、いとこも、みんな病院に来ていた。
病室に入って、ベッドで寝ているおばあちゃんを見たら、涙が溢れ出てきた。
お母さんに、おばあちゃんに話しかけてあげてって言われたけど、もう気持ちがいっぱいいっぱいになって、もうだめだった。
なんとか、気持ちを抑えて、おばあちゃんの顔の近くで、呼びかけた。
おばあちゃん、私の顔を見て、すごくうれしそうに、にこって笑った。
名前を呼んでくれた。
私がしてたマフラーを触って、ええ柄やねーって褒めてくれた。
いつもおばあちゃん、私が新しく買ってもらった服を着て、一人ファッションショーをしている時、ええ服やなーべっぴんさんやって言ってくれた。
とりあえず、この時は、容態は安定していて、このままどうこうってことはないってお医者さんに言われた。
翌日から仕事だったけど、不安でしょうがなくて、でも仕事に行かないといけないから、その日の夜、後ろ髪をひかれる思いで、東京に帰った。
ずっとおばあちゃんのことを思いながら過ごした。
この年の初詣は、成田山に行った。
おばあちゃんのことをいっぱいお参りして、御守りを買った。
思いがこらえきれなくて、職場のお風呂に入っている時に、同期の子に、溢れそうになる思いを全部話した。
彼女は、すごくあたたかく、私の話を聞いてくれた。
気持ちが少し、軽くなった。
そして、1月18日の朝。
いつも通り、仕事に向かい、仕事がこれから始まる!という時に、会社の方が、私を呼んだ。
お母さんが、今すぐケータイに電話してほしいと。
すぐに、かけ直した。
あばあちゃんが危篤だから、すぐに帰ってきてと。
お母さんの声を聞いて、すごく焦ってしまった。
もう意識もほとんどないからって。
もう気が気じゃなかった。
涙が溢れ出そうな中、仕事場を飛び出した。
そのまま、新幹線に乗って、帰りました。
いつもならあっという間の2時間が、本当に長かった。
窓からの風景をずっと見ながら、おばあちゃん待ってて、おばあちゃん待っててって思ってた。
やっと着いて、そのままおばあちゃんのもとへ。
いっぱいいっぱい呼びかけた。
名前を何度も言った時、ほとんど意識がないはずのおばあちゃんの目が少し開いた、気がした。
きっと聞こえてるんだって思った。
あたたかい手をずっと握ってあげてた。
おばちゃんたちもみんな集まって、朝から夜まで、一緒にいられる間は、ずっと近くにいました。
悪いなりにも、容態が安定したので、いったん、お風呂に入りに帰りました。
そして、家に到着して、1時間もたたないうちに病院から電話が。
今すぐ、来てください、と。
さっきまで安定してるって、お医者さんも言ってたし、すぐいっちゃなんてないって信じてた。
お父さんがお風呂に入っていたから、お母さんがまず先に向かった。
一足早く着いたお母さんから、泣き声で、早く来て!って電話があって、お兄ちゃんと一緒に急いで向かいました。
少しだけ、遅かった、間に合わなかった。
でも、声だけは聞こえてるって聞いたことあったから、必死に呼びかけた、引き止めた。
まだ、手は温かかった。
ほっぺも温かかった。
両手で、ほっぺを包んであげた。
現実を受け止められなかったけど、親族みんなが続々とおばあちゃんのもとに集まってきた。
こんなにも愛されているおばあちゃんは、本当に幸せだったんだなって思いました。
とても安らかな顔で、眠っているようでした。
そして、何日かぶりにお家へ戻ってきました。
ちっちゃい頃のように、おばあちゃんとお父さんと、川の字になって眠りました。
ヒマさえあれば、おばあちゃんの近くに行って、お話をしました。
お通夜の日には、おばあちゃんに、たくさんのありがとうを伝えるために、手紙を書きました。
書き始めたら止まらなくなって、便箋5枚くらいになりました。
小さい頃に、敬老の日やお誕生日にあげた、おばあちゃんへの手紙も一緒に入れました。
写真は、私が大学の頃、誕生日にあげた洋服を着て、ソファに座って笑っているおばあちゃん。
私が撮った写真です。
たまに思い出してしまって、ぐっとなることはあるけど、なんだか強いものに守られている気がするのは、きっとおばあちゃんなんだと思う。
私の心の中には、ずっとずっとおばあちゃんは生きているし、近くで見ていてくれる。
おばあちゃんの孫として生まれてこれて、本当によかった。
天国で、今頃、おじいちゃんと幸せに笑いあってるかな。
私もいつかはそっちに行くから、またその時に会いたいな。
おばあちゃん、ずっとずっと、大好きだよ。