道州制・地方分権は福祉を「地方の自己責任」とし「地方自治体を構造改革の執行者へ変質させる」 | すくらむ

すくらむ

国家公務員一般労働組合(国公一般)の仲間のブログ★国公一般は正規でも非正規でも、ひとりでも入れるユニオンです。

 10月17日、全労連公務部会で、「道州制・地方分権『改革』を考えるシンポジウム」を開催しました。一橋大学・渡辺治教授による基調報告の要旨を紹介します。(byノックオン)


 財界が「究極の構造改革」と位置づける「道州制・地方分権改革」の狙いは、大きく言って2つあります。


 狙いの1つは、地方自治体を「住民自治の単位」ではなくて、「構造改革の執行の単位」に変えることにあります。地方自治体に、住民生活切り捨ての構造改革、新自由主義改革の役割を果たさせるということです。これが「道州制・地方分権改革」の最大の狙いです。


 構造改革、新自由主義改革というのは、この間の「貧困と格差」の拡大に顕著に見られるように、必ず住民犠牲がともないます。様々な形で住民に犠牲を強いるわけです。これは日本だけでなく、どこの国でも同じことが起こっています。


 この住民犠牲の新自由主義改革を、中央政府が実行すると、どうしても地方自治体は、住民犠牲を背に受けて大きな抵抗体になってしまうのです。これでは、新自由主義改革が進まなくなるので、中央政府が新自由主義改革を直接進めるのではなく、むしろ地方自治体が新自由主義改革を直接実行するシステムをつくってしまいたいと考えたわけです。


 新自由主義改革を進める「責任」と「限定された財源」を、国から地方自治体に丸投げすることによって、地方自治体が責任を持って新自由主義改革を実行し、住民福祉を切り捨てるよう仕向けていく。その際、どの住民福祉を切り捨てるかは、地方自治体にまかせる、という形をつくるのが、「道州制・地方分権改革」の最大の狙いです。


 同時にそれをやることによって、国の責任であるナショナルミニマム(最低生活保障)を放棄してしまう。地方自治体は限られた財源の中で、社会保障費を削減せざるを得ない。社会保障費にキャップをはめ、地方自治体の間で、社会保障費の削減競争をさせるシステムをつくる。これは部分的にすでに行われています。たとえば、「三位一体の改革」で、地方交付税を削減して、その枠内で地方自治体はいやがおうでも住民犠牲を進めざるを得ません。また、今度の地方分権改革推進委員会の第3次勧告の中では、「義務付け・枠付け」をはずすという形で、国は地方自治体に対して、「住民福祉を切り捨てる自由度を与えますよ」ということにしていく。そして、地方自治体に新自由主義改革の責任を丸投げするには、市町村の規模が小さくては難しいので、さらに市町村を合併させ、広域化などの中で、住民の意思が反映しづらいような仕組みをつくって、住民自治を形骸化させ、非民主的な形で執行責任をゆだねていく。


 小泉構造改革で行われた後期高齢者医療制度を都道府県広域連合にまかせるというのも同様です。医療費適正化計画という名の「医療費削減計画」を都道府県に立てさせて、その範囲でやらせ、もしそれで赤字がでたら、国が責任を持つのではなくて、都道府県広域連合の中で責任を持ちなさいよというものです。政管健保を協会けんぽに変えたことも同様です。


 これらは、すでに生活保護行政の窓口で行われている「水際作戦」に顕著に見られるように、「住民の身近な窓口」をむしろ「住民に敵対する窓口」に変質させていくものです。「道州制・地方分権改革」は、こうした形を一層進めて、地方自治体全体を、「新自由主義改革の先兵」にする。そしてこれを実行するためには、住民自治機能の不断の形骸化、住民の民主的コントロールを不断に形骸化させる必要もあるわけです。


 もう1つの狙いは、「道州制」によって、グローバル大企業が、より自由に、より迅速に、公的な資源を利用し、巨大開発を都道府県の枠を超えた道州単位で効率的にできるようにしたいということです。


 財界は、国土交通省を媒介にして今までも散々巨大開発はやってきたのに、なぜ道州制にこただわるのでしょうか? それは、グローバル競争の中で財界は、国土交通省の媒介を経ずにもっと直接的に自分で公的資金を利用したいと考えているのです。そのために、財界は自ら直接計画を立て支配していきたい。その形をつくるのは「道州制」がベストだということです。これが日本経団連が盛んに主張している「道州制」の魅力です。「道州制」によって、今まで地方自治体が持っていた住民保護的な機能とか規制を取り払って、広域的に自由に公的な資金を巨大開発に投入する形をつくりたいと財界は思っているわけです。


 新自由主義改革の執行体に地方自治体を変質させながら、広域な地方自治体を自由に大企業が使えるものにしていきたい。これが、財界の「道州制・地方分権改革」の狙いです。


 こうした狙いを持つ「道州制・地方分権改革」に、民主党はどう対応していくでしょうか? 民主党は結党以来、マニフェストがくるくる変わっていますが、一貫して変わらないのがこの「地方分権型国家」を目指すというものです。


 民主党が「分権型国家」に一貫してこだわっている理由は、中央集権型の国家を変えたいということと、新自由主義改革を進めたいという2つです。中央集権型の国家を変えたいという思惑は、積極的な側面もあります。衆院選のマニフェストにあるコンクリートの政治から人への投資や、政官財癒着の開発主義国家はもうやめたいというような方向性の積極的な側面もあります。


 しかし、民主党が考えている「地域主権国家」「分権型国家」の本質は、「小さな政府」のもと、地方自治体間の競争で、新自由主義改革を進めたいということです。そのためには、都道府県よりも大きな執行体でなければいけない。国がナショナルミニマムの責任を抱えていたら、これはできませんから、ナショナルミニマムの責任を国が放棄して、「地方の自己責任」としてしまいたいというのが、民主党の考える「小さな政府と分権型国家」の本質です。


 10年にわたる民主党のマニフェストを読んでみると、重大な問題が浮かびあがってきます。それは、「地域主権国家」など名前は変遷していますが、「分権型国家」の方向性は一貫している一方で、住民の民主主義を担保するという意味での「地方自治」「住民自治」という言葉は一切使われていないということです。これは民主党の非常に非民主的な特徴です。「地方自治」「住民自治」という民主主義の観点については、民主党は一貫して持っていないのです。むしろ改革を遂行するためには、「上からの官邸主導」が必要だというわけです。「地域主権国家」と言うのだけど、その「地域」というのは、基礎自治体を巨大にして、そこで、上から権威的に運営するような、そういう地方のイメージです。「地方自治」「住民自治」とは相反するわけです。そういう意味では、民主党の新自由主義構想は一貫しているのです。


 民主党の「官僚主導を打破」して、「官邸主導」「政治主導」にするということは、新自由主義改革の強力な遂行のためには、族議員とか官僚とか有象無象の地方利害を聞いていたら進まない。だから、これらを切り捨てて、「官邸主導」で上からやっていく。まさに今、仙谷さんや藤井さんが「行政刷新会議」でやっていることです。


 だから、強力な上からの改革と、加えて新自由主義の執行単位をまかされた地方。こうした国と地方の形での新自由主義改革の遂行、これが民主党の国家構想です。


 民主党のマニフェストで分権国家構想は変わっていませんが、ただし、細部は変わっています。「道州制」はずっと言ってきましたが、小沢マニフェストから「道州制」は消えました。小沢さんは道州制構想をとっていないからですが、限られた財源で、新自由主義改革の権限を与えて、地方自治体に構造改革を執行させるという考え方は一貫しています。


 民主党は衆院選マニフェストで、国家公務員を2割削減するとしています。国のナショナルミニマムを放棄するために、国家公務員を切り捨てて、地方を大きくするかというと、地方も切り捨てる。全体として「小さな公務」ということが「分権改革」の特徴になります。


 しかし、こうした民主党の路線は、今回の総選挙に託した反構造改革、国民生活第一という住民の願いと矛盾することになります。「貧困と格差」をなくしていくための住民にやさしい公務が求められる状況との矛盾が大きくならざるをえません。


 私たちは、観客になってテレビにかじりついて民主党の動向を眺めている場合ではありません。新自由主義型の国家に対抗する「新しい福祉国家構想」を具体的に対置していく必要があります。観客はやめて、私たちの主体的、攻勢的な取り組みを進め、民主党を反構造改革、反自由主義改革へ向かわせる必要があるのです。