1963年 →1964年
【テレビまんが誕生の年】
個人的この1作
鉄腕アトム
我が国におけるテレビアニメーションの歴史は1963年の『鉄腕アトム』がその起源と定められている。
1953年の力道山vsシャープ兄弟のプロレス中継から始まったテレビ放送は、戦後高度経済成長期における隆盛の象徴であり、当時「テレビまんが」と呼ばれたアニメもまた新たな産業として早くから注目されていた。
実際、アトム以前にもアニメーションのテレビ放送は存在していたものの、アメリカから輸入された作品(ディズニーなど)や国産のものは原始的な短編作に過ぎなかった。
当時の映像業界で、ひとつのアニメーション作品を制作するには多大な時間と費用を要し、連続した作品を毎週放送することは不可能というのが常識であった。
そのような状況にメスを入れたのが漫画家手塚治虫である。
幼少期からディズニーを愛好していた手塚にとって、アニメーション作品を手掛けることは予てからの念願であり、1961年には自らのプロダクションに動画部を設立する。
動画部は「虫プロダクション」と名付けられ、日本初となる30分枠の連続アニメーション作品『鉄腕アトム』の制作が開始された。
1958年に東映動画(現・東映アニメーション)が制作した大作映画『白蛇伝』。
この映画は2年に及ぶ構想と、80分のアニメーション映像を作り上げるのに約7ヵ月の作画制作期間と4,000万円の制作費、1万6千枚の原画、6万5千枚の動画を要した。
一方、アトムの1話あたりの制作予算は55万円であり、東映と同様の手法で毎週30分アニメを制作するならば、予算も時間も圧倒的に不足している。
そこで手塚が活路を見出した手法が「リミテッド・アニメーション」である。
「リミテッド=制限」つまりはキャラクターをなるべく動かさない手法だ。
『白雪姫』などのディズニー映画に代表される、1秒間に24枚の絵を要する従来のアニメは、リミテッドと対称して「フルアニメーション」と呼ばれる。
1秒間に12枚に制限したのが東映の『白蛇伝』、手塚が手掛けるアトムはさらにそれを8枚に制限(フルアニメの3分の1)して映像を制作。同じ絵を3枚撮影する手法から「3コマ打ち」と呼ばれた。
さらに会話部分では口や目だけを動かしたり、背景を使いまわしたり、数々の手塚式リミテッドを生み出すことでフルアニメの20分の1の原画枚数に抑えることに成功。
それでも55万の予算では到底足りず、残りの制作費は手塚漫画の印税収入で補填した。
こうして出来上がった鉄腕アトム第1回「アトム誕生」の巻は1963年の元旦に放送され、視聴率は27.4%と好スタートを切る
ほぼ全カットの原画を手塚自身が描き、視聴者に基本設定を明確に伝え、テンポよく進行させた素晴らしい初回であった。
冒頭の少年の死から始まり、虐待されるロボット、そしてアトムの挫けない勇気を描写した明瞭なストーリーは、それまで放送されたアメリカ産のドタバタギャグ作品では到底味わえない感覚で子供たちを魅了した。
フルアニメよりリミテッド、動きより内容、ギャグよりストーリー、以降作られるテレビアニメの指針を決定づけたのも手塚治虫と鉄腕アトムと言えるだろう。
こんな作品もありました
鉄人28号
エイトマン
狼少年ケン
虫プロの『鉄腕アトム』の成功を受け、続いてアニメ制作に動き出した会社は後に『サザエさん』を現在に至るまでアニメを作ることになるエイケン(当時TCJ)であった。
1963年10月から横山光輝の人気漫画『鉄人28号』をアニメ化しフジテレビで放送。
本作は、国内最古の巨大ロボット漫画&アニメであり、アトムと違って鉄人に自我はなく、人間のリモコン操作によって操縦されることから、ロボットは操縦手次第で正義にも悪にもなった。
この要素は後の『マジンガーZ』『機動戦士ガンダム』の土台になる。
続く11月にはTBSにて『エイトマン』が放送スタート。
原作名は8マンだが、6チャンネルのTBSの番組ということでカタカナ表記となる。
動画はエイケン=TCJが作画し、シナリオは原作者が指揮、その他制作面はTBSが全面主導権を握る。
現代のアニメ業界と違い、アニメーション会社が主だって作品を制作するのではなく、当時はテレビ局が主体で番組を制作し、動画作りのみ下請けさせる形態が主流であった。
作品内容としては、アトムや鉄人はどちらかと言えば子供向けであったが、エイトマンは最先端のSF技術とリアリズムを取り入れることで、高校生など比較的高い年齢層にも受け入れられた。
当初アトムを低品質と見下していた大手アニメーション会社、東映動画も同作のヒットにより、いよいよテレビ用作品を作らざるを得ない状況になり、虫プロに遅れること1年、生まれたアニメが『狼少年ケン』だ。
年度末よりNET(現テレビ朝日)で放送がスタートしたこの作品は、東映生え抜きの社員によるものではなく、手塚治虫の元アシスタントで若手の天才アニメーターでもあった月岡貞夫による企画であった。
しかし、月岡の才能を持ってしても毎週30分アニメを作り上げることは不可能で、各話ごとに違った制作チームをローテーションで組むことになり、作画や演出の統一性がなくなった同作に失望した月岡は翌年2月に東映を退所してしまう。
テレビシリーズのノウハウがない当時は、各話の演出を統括する総監督制度が存在しなかったことが分かる。
発案者が去った後も、ケンの放送は続き、若手の高畑勲らが演出に抜擢。
テレビアニメ黎明期においてアトムと人気を二分し、1965年まで全86話に渡って放送された。