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 ①  ブロディ刺殺事件 

 

 1988年7月17日、カリブ海プエルトリコの団体WWCでの興行中、ブルーザー・ブロディが刺殺される。容疑者は現地レスラー兼ブッカーのホセ・ゴンザレス。シャワールームにブロディを呼び出し凶行に及んだ。動機については様々な説が囁かれるも、現場にいた米国人レスラーは翌日にはほぼ全員プエルトリコから出国し、詳細な真相を語る者は誰もいなくなった。確かなのは、ブロディはゴンザレスのような小兵をレスラーとして認めなかったであろうこと、プエルトリコでも団体の命令に簡単に従うような性格ではなかったであろうこと他、日本でもよく知られるブロディの気質のみである。結果として容疑者のゴンザレスは現地裁判にて正当防衛が認められ無罪放免となった。

 

 ブロディが殺された日、WWCに参戦していた新日本プロレスの武藤敬司も会場にいたが、米国人レスラーらと共に彼もプエルトリコから出国した。7月29日の新日本・有明コロシアム大会で橋本&蝶野と闘魂三銃士として一夜限りの日本凱旋を果たした後、米ダラスに進出。以後、武藤はグレート・ムタとして世界的レスラーに成長することになる。

 

 3ヶ月前の鶴田戦がブロディ最後の参戦シリーズとなった全日本プロレスでは、夏季シリーズでブロディの盟友スタン・ハンセンが爆発。7月27日の長野市民体育館大会にて、天龍のPWF&UN二冠タイトル戦に挑んだハンセンは、入場前の乱闘で天龍を血ダルマにする。さらにはブロディ必殺のキングコング・ニードロップを繰り出し、最後はウエスタン・ラリアットで天龍を観客席までぶっ飛ばし場外ノックアウト。二冠王者となったハンセンは両ベルトを天に掲げ「ブローディー!ブローディー!」と絶叫した。

 

 ②  涙の師弟対決 

 

 アントニオ猪木が復帰した夏の新日本プロレスではIWGP挑戦者決定リーグ戦が開幕。猪木、長州力、マサ斎藤、木村健悟、ベイダーの5名で争い、優勝者が王者・藤波辰巳に挑戦することになった。7月22日、札幌中島体育センターで猪木vs長州のリーグ公式戦が組まれ、この試合で背後から延髄にリキ・ラリアットを受けた猪木がピンフォール負けを喫する波乱が起こる。猪木にとって新日本マットシングル戦初の日本人レスラーからのフォール負けだった。しかも、前日の小樽市地方興行のタッグ戦でも猪木は長州に3カウントを奪われており、日本人相手に2日連続で完敗となった結果も初の出来事だった。

 

 初の猪木越えを果たしたのが自分ではなく長州となってしまったことに対し、藤波は少なからず落胆しただろうが、結局リーグを勝ち上がったのは猪木となった。8月8日、横浜文化体育館における藤波辰巳 vs アントニオ猪木のIWGP王座戦は、猪木が負けたら引退するという噂が流れ、テレビ朝日はこの試合をゴールデンタイム生中継で放送。実況席には一夜限りのアナウンサー復活として古舘伊知郎が座った。

 

 猪木の握手拒否から始まった試合は、序盤からストロングスタイルの真髄を見せつけるかのような激しい主導権争いが繰り広げられた。まず藤波がキャリア初のジャイアントスイングを披露。1回、2回、3回猪木を振り回して投げた。猪木がジャーマンを繰り出せば、藤波がサソリ固めを極める。猪木が卍固めを極めれば、藤波が掟破りの卍固めを極める。実況席の古舘氏は「2人の猪木が闘っている」と試合を表現。この時45歳、長州に敗れ「落日の闘魂」と呼ばれるまでに追い込まれた猪木が死力を振り絞った。激闘は60分が経過し、時間切れフルタイムドローのゴングが打ち鳴らされた。

 

 試合後、猪木が自らの手でベルトを藤波の腰に巻くと、藤波は師に抱きついて涙。リングに駆け上がった長州が猪木を肩車し、越中が藤波を肩車。感極まった猪木は号泣した。会場は「イノキ」コールや「ドラゴン」コールに包まれ感動的なフィナーレとなる。とうとう最後まで猪木越えを果たすことが出来なかった藤波だが、その心中は言い知れぬ満足感に満ちあふれていた。限界説が囁かれた師を自分との試合で蘇らせることが出来たからだ。フルタイムを闘い抜いたことで自信を付けた猪木は結局10年も引退が先延ばしとなり、藤波の「猪木を守るために起こした飛龍革命」はここに完遂したのである。

 

 ③  新生UWFブームの幻想 

 

 新生UWF(第二次UWF)は後楽園ホールの旗揚げ戦の後、6月11日に前田日明vs高田延彦をメインに札幌中島体育センターで第二戦。勢いをそのままに8月13日には東京・有明コロシアムにて「真夏の格闘技戦」を銘打つビッグイベントを行うことを発表した。前田の相手はオランダの格闘家ジェラルド・ゴルドー。大会前日まで台風による豪雨が降り続き、野外会場であることから開催が危ぶまれたが当日は奇跡的に快晴となる。メイン戦の前には観客を盛り上げるためレーザー光線によるショーが行われた。プロレス興行で光と音が奏でるロックコンサートのような空間を創造した団体は新生UWFが初めてだった。メイン戦の結果は、ゴルドーのハイキックをキャッチした前田が裏アキレス腱固めをがっちり極め、前田のギブアップ勝ちとなる。

 

 有明大会の成功によってUWFの人気は一般層にも届き始める。9月26日に放送されたフジテレビの報道番組『FNNスーパータイム』内ではUWFが10分間の特集で報道された。安藤優子キャスターはUWFを「真剣勝負をするプロレス団体」と紹介。TBSでも10月26日午後7時から『地球発19時』で1時間の特集番組を放送し、視聴率は12.7%を記録した。この番組でも「真剣勝負」という単語が10回以上使用され、インタビューを受けた若いファンが「真剣勝負だから家族に胸を張ってファンと言える」と語る場面が印象的だった。

 

 一方、新生UWF旗揚げ時に熱烈に応援した雑誌『週刊プロレス』の編集長ターザン山本は早くもUWFに飽きていた。「真剣勝負」を謳い文句として一般マスコミにもてはやされる状況に白けていたのだ。UWFが「本物」で既存団体が「インチキ」とされるのも本意ではなかった。しかしUWFフロントにとってプロレス専門誌などもはや重要な存在ではない。テレビ放送がないことで半ば神格化されたUWFは、大会のVHSビデオが飛ぶように売れ莫大な利益をもたらしていた。UWFはもはや弱小団体などではなく、プロレスの枠を超えた社会現象になろうとしていたのだ。ところが看板選手の一人である高田延彦はそのような現状に罪悪感ともいえる複雑な思いを抱いていた。本当に「インチキ」なのはUWFであることを自覚していたからだ。幻想とも呼べたUWFブームは一年後、早くも停滞を迎える。

 

 ④  昭和最後のプロレス界 

 

 全日本ジャイアント馬場はこの年、ラッシャー木村とのタッグ"義兄弟コンビ"を結成。8月29日の日本武道館における試合後、木村が「馬場、お前のことをな、アニキと呼ばせてくれ」とアピールしたのがタッグ結成のきっかけであった。一線を退き前座で連戦を繰り広げていた両者だったが、馬場に敗れるごとに毎回マイクアピールで会場の笑いをとる木村の姿はいつしか全日本の醍醐味となっていた。馬場にとっても前座での「明るく楽しいプロレス」は心地よい空間であり、翌89年にはザ・グレート・カブキや百田光雄、その他若手選手などを加えて"ファミリー軍団"を構成。渕正信、永源遙、大熊元司の"悪役商会"との抗争が始まった。「ファミ悪決戦」は馬場の人生最後の試合が行われた1998年12月5日まで会場を沸かせ続けるのである。

 

 義兄弟コンビとして出場した11月の「89年世界最強タッグ決定リーグ戦」の開幕にあたっては、馬場は経営者として容赦なく、阿修羅・原を解雇した。原の借金問題による私生活の乱れが解雇理由だった。盟友を失った天龍は川田利明をタッグパートナーに抜擢しリーグに出場。最終戦では川田が狙い撃ちにされ、孤立した天龍をラリアットでKOしたスタン・ハンセン&テリー・ゴディの「ニュー・ミラクルパワーコンビ」が優勝した。敗れはしたが武道館のメインを張った川田は自信を付け、後の超世代軍における飛躍につながった。また、12月25日には一時は時の人だった元横綱・輪島がひっそりと現役を引退している。

 

 新日本アントニオ猪木は現役続行となったものの、結果的に8.8の藤波戦が人生最後のタイトルマッチとなる。この頃から猪木は世界戦略構想を唱え始め、その目玉としたのがソ連のアマチュアレスラーの参戦であった。12月中旬から下旬にかけては、猪木が長州と馳浩を引き連れて訪ソし、グルジア共和国の合宿でソ連アマレス軍団に対して「プロレスとはなにか」を講義、教育を行った。崩壊寸前のソ連からのプロレスラー輩出は国策"ペレストロイカ"の一環ではあったが、それまでプロレスに全く門戸を開かなかった状況の打破は快挙として世界各国で報道される。そうして誕生させたソ連・レッドブル軍団は翌年サルマン・ハシミコフをエースとして新日本に上陸を果たすのである。

 

 新生UWFの成功は、全日本と新日本の二極体制すなわち70年代初頭より続くBI(馬場&猪木)体制を終結させ、計らずもプロレス界を再編する流れを導いた。リタイア同然だったレスラーや関係者が我こそはと第二のUWFを目指し始めたのである。11月15日、浅草のアニマル浜口ジムでは国際プロレス出身の剛竜馬、高杉正彦、アポロ菅原が新団体"パイオニア戦志"を立ち上げることを発表した。パイオニア戦志は日本プロレス界におけるインディー団体の始まりと言われ、この団体は90年に直ぐに解散となったものの、以後無数のインディー団体が日本各所に誕生し現在のプロレス界に至ってゆく。

 

 かつての新日本を取り締まった"過激な仕掛け人"新間寿は11月7日に"格闘技連合"の発足と前田日明への宣戦布告を発表している。第一次UWFを立ち上げた張本人でありながら今や何者でもない存在にまで落ちぶれた新間は、空手の士道館などと協力し、大ブームとなっている新生UWFに揺さぶりをかけようとしたのだ。ところがUWF側からの返答はなく、格闘技連合の名代として元プロレスラーの大仁田厚を12月22日のUWF大阪府立体育館大会に乗り込ませた。新間から渡された挑戦状を持って会場入りした大仁田だが、UWF社長の神新二に「大仁田さん、チケットを持っていますか?」と一蹴されてしまう。プロレスを否定するような試合を行う団体の社長に小バカにされた大仁田は大いに憤ったが、だったら自分は徹底的に対極なものを生み出してやろうという結論に至り、翌年手元にあった全財産5万円を元手に自らの団体FMWを旗揚げ現役復帰。本当に痛いのは関節技ではなく有刺鉄線だとばかりにデスマッチ路線を追求していくことになった。

 

 1989年1月7日、昭和天皇が崩御。昭和が終わり元号は平成となる。プロレス界も力道山死後、業界を牽引した馬場と猪木の時代に終止符が打たれようとしていた。馬場は既に前線を退き、猪木は新たな目標として政治家への道に進み始める。昭和を彩ったゴールデンタイムのプロレス中継は88年で幕を閉じ、業界は新たなビジネスモデルを形成する必要性に迫られたが、テレビがなくともムーブメントを起こし得ることは新生UWFが証明。そして若いファンからはプロレスからショー的要素を廃したリアルファイトを渇望する潮流が高まり、近い将来の総合格闘技の誕生を予感させた。それはかつて1976年、後のタイガーマスクとなる18歳の佐山聡が構想した夢が現実となったことを意味する。プロレスを引退した佐山は自身が考案した新格闘技の競技化を目指し「修斗」を設立したが、修斗がプロ興行としてファンに認められるにはまだまだ数年の時を要す。これから10年後、リアルファイトが日本プロレス界を存亡の危機に陥れる未来はまだ誰も予測していなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

丸一年書いた論文も一旦終了。

ありがとうございました。

平成時代も機会があれば…

日本プロレス史

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