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 ①  プロレスvs極真空手 

 

  これまで異種格闘技戦で空手勢を破ってきたアントニオ猪木に、極真空手の"熊殺し"ウィリー・ウィリアムスが挑戦を表明。2月27日の蔵前国技館で格闘技世界一決定戦が開催された。梶原一騎原作のアニメ"空手バカ一代"でもお馴染みの極真空手は、ゴッドハンド大山倍達を頂点とする超実力者集団として知られ、これまで猪木と戦ってきた空手家とは一線を画する強敵とされた。また、ウィリー・ウィリアムスは76年に上映された極真空手のドキュメンタリー映画で灰色熊(グレズリー)と素手で闘う映像を収めたことでも話題となった。

 

 試合当日の蔵前国技館は異様な雰囲気に包まれた。「プロレスこそ最強の格闘技である」を標榜する猪木に対し、極真空手も"地上最強のカラテ"を謳い文句にする武闘派団体であり、これでは互いの支持者がぶつかり合わないわけがない。大会前には狂信的な門下生から猪木襲撃の犯行予告もあったため、国技館の入り口に金属探知機が設置されるなど厳戒態勢が敷かれることになった。まるでテロでも起こりそうな殺伐とした空気の中、会場入りする観客は皆緊張で固くなっていた。

 

 試合は2ラウンド、場外で乱闘となり一度は両者リングアウトの裁定が下ったが、立会人の梶原一騎氏が試合続行を指示し場内は大歓声。その後4ラウンドに猪木が場外で腕ひしぎ逆十字固めを極めたが、脇腹を痛めてギブアップ奪取には至らず両者ドクターストップで引き分けに終わる。試合前のプロレスvs極真空手の図式は異様な盛り上がりをみせたが、肝心の試合は力の入らない凡戦であったという声も多かった。試合後、猪木は「この試合をもって異種格闘技戦を一区切りとする」とコメント。76年のウィリエム・ルスカ戦、モハメド・アリ戦から始まった格闘技世界一決定戦はこうして一旦打ち止めになり、次に開催されるまで4年半の歳月を要すこととなる。

 

ウィリー・ウィリアムス(1951年〜2019年)

猪木戦で他流試合を行ったことで大山総帥から破門されるも4年後に復帰。

84年の極真世界大会に出場するも4回戦敗退。

その後再び消息を絶ち、91年にK-1黎明期のエース佐竹雅昭と戦い判定負け。

翌年リングスに参戦して前田日明と戦うなどしたが、2019年に心臓病で死去。

 

 ②  掟破りの逆ラリアート 

 

 1980年はスタン・ハンセンが猪木のライバルに昇格した年と言える。2月には必殺のウェスタン・ラリアート(ラリアット)で猪木をノックアウトして、当時の新日本フラグシップタイトルNWF王座を奪取。猪木の防衛記録は27でストップ。4年8か月に及ぶ長期政権にピリオドが打たれた。その後4月に猪木がベルトを奪還し、完全決着となるタイトルマッチが9月25日の広島大会で行われることになった。

 

 試合は必殺のラリアートを狙ったハンセンを、猪木がカウンターの逆ラリアートを放ってこれに焦ったハンセンを逆さ抑え込みで下し完勝。実況の古舘伊知郎氏から"0.X秒差の逆ラリアート"などと言われたこの一発は猪木が生涯で唯一放ったラリアットとして名場面となるが、それを乱発せずに一回だけにとどめて置くのが猪木の名レスラーたる所以かもしれない。また、対戦相手の得意技を盗む「掟破りの〜」と言われる今やお馴染みのムーブを初めて見せたのもこの試合のアントニオ猪木である。ハンセンやシンといった世界的には無名のガイジンを相手にし、体を張って秘めた素質を開花させた点も評価に値するだろう。

 

 その他の新日本プロレスの出来事としては、後に全米スーパースターとなるハルク・ホーガンが初来日したのもこの年。10月には猪木のNWF王座に挑戦。11月の第1回MSGタッグリーグではハンセンとタッグを組み、猪木&WWF王者ボブ・バックランドの"帝王コンビ"と決勝戦を争った。まだパワーだけで技術は無かったが既に大物の片鱗を見せつけていた。

 

 ③  80年の全日本プロレス 

 

 全日本プロレスはジャイアント馬場がデビュー20年にして通算3000試合出場の偉業を達成。春のチャンピオン・カーニバルではジャンボ鶴田が初優勝を決める。さらに年末の世界最強タッグは馬場&鶴田組の優勝。この年は新日本、全日本ともにリング上のニュースが主となる平和な一年となった。

 

 9月4日には佐賀スポーツセンターにて、馬場が世界王者ハーリー・レイスを破り、前年79年10月31日に続く自身3度目となるNWA世界ヘビー級王座奪取に成功した。しかし今回も翌週の再戦で防衛失敗。一週間天下に終わる。前年も全く同じようにレイスとNWAベルトの貸し借りを行っていた馬場。もはや50年代のルー・テーズに始まるNWA王者の権威はこの時点で大きく失落しており、世界タイトル戦を地方会場や後楽園ホールで乱発している点にも批判が集まった。レイスに至っては防衛回数より獲得回数の記録に重点を置く始末。あえて短期間ベルトを明け渡すことにより、結局彼はNWA王座を8回獲得する記録を残すことになる。

 

 世界タイトルの貸し借りという悪しき風習のケチは付いたものの、NWA黄金期にベルトを獲得したのは事実としてジャイアント馬場ただ一人である。新日本のアントニオ猪木には挑戦のチャンスさえ回ってこなかった。ちなみに猪木は馬場の3000試合出場について「立派だけど怪我をしない戦いなんて、どうかな」と皮肉を込めたコメントを残している。

 

ハーリー・レイス(1943年〜2019年)

70年代から80年代前半において世界を代表したプロレスラー。

"ハンサム"の愛称(米国流のジョーク)を持つが、日本ではどこがハンサムなんだという疑問からか、"美獣"というニックネームが付けられた。

若い頃、実戦形式のシュートマッチで経験を積んだことからガチンコの強さも相当なものだったという。

馬場の信頼も絶大で、生涯でただ一人一緒に酒を飲んだ外国人がレイスであった。

 

 ④  IWGP構想 

 

 12月13日、東京体育館における新日本プロレス特別興行にて、営業本部長の新間寿がリング上で「世界中に乱立するベルトを統合し、世界最強の統一世界王者を決定する」とアナウンス。後のIWGP構想を初めて発表した。

 

 75年にNWAという世界最大のプロレス同盟に加入が許された新日本プロレスだったが、NWAが日本マーケットにおいて全日本プロレスを主流と扱ったのは5年経た後も変わらず、世界チャンピオンの新日本参戦は実現の目処が立たなかった。猪木は異種格闘技戦という独自路線をゆくことで数年の間は凌いできたが、それも限界が生じウィリー・ウィリアムス戦を堺に一旦終了。純プロレスに回帰したはいいが強豪外国勢は提携中のWWF由来のレスラーを除けば未だ全日本・馬場に掌握されてるのが現状だった。

 

 「新間、NWAには入ったけど、チャンピオンは来ない。何かいいアイディアはないか?」そう猪木が聞くと、「簡単じゃないですか。NWAの上にいくやつを創りましょう。創れるか創れないかではなく、創ればいいんですよ」と新間は答えた。こうして持ち上がったのがIWGP(International Wrestling Grand Prix)であり、今も新日本プロレスの象徴になっているタイトルであるが、実は当初のプランにおけるIWGPはベルトやタイトルではなく、ずっと壮大な計画であった。世界のトップレスラーが6ヶ国で予選を行い、上位2名がニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで決勝を行うというサッカーのW杯のような大規模大会の開催を構想していたのである。しかし結局は各地区の団体プロモーターの協力を得られず紆余曲折の末、83年5月に第1回「IWGPリーグ戦」が開催されるのだが、それはまた次回の話。